美食の理論

─北大路魯代山人

 

「一切の善の始まりであり根であるのは、胃袋の快である。知的な善も趣味的な善も、すべてこれに帰せられる」。

エピクロス

「どんなものを食べているか、言ってみたまえ。きみがどんな人であるかいい当ててみよう」。

ヴリア・サヴァラン『美味礼讃』

「生物体は『負のエントロピー』を食べていきている」。

エルヴィン・シュレーディンガー『生命とは何か』

「逆境に生まれ落ちても、努力次第でこうなれる。敢えて俺の名誉でのためでなく、ゆくりなくも逆境に生まれ、悩んでいるひとたちへ、せめて励ましになるように、俺の伝記の冒頭に、このことを書いてくれ」。

北大路魯山人

 

 ポール・ヴァレリーは、『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』において、一つの事柄で新たな視野を開いたものは一挙に多方面の事柄が見える、と述べている。北大路魯山人(一八八三一九五九)は、おそらく、そうした多彩な可能性を持ち得たものの一人であろう。魯山人は陶芸家、書家、日本画家、篆刻家である、と同時に、さらに美食家としても知られ、しかもそのどの分野においても新たな地平線を切り開き、卓越した功績を残している。

 魯山人は本名を房次郎といい、上賀茂神社の社家である父北大路清操、母とめの次男として生まれた。ただし、清操は彼が生まれる前に亡くなっている。生後すぐ滋賀の農家に養子にやられたが──養子先は不明──、その半年後、京都の服部家に養子として入籍しているのである。一八八九年、六歳のとき、その服部家を離縁され、今度は、京都の木版師福田武造の養子として入籍している。十歳ごろから、丁稚奉公をしたり、養父の仕事を手伝ったりしていたが、一九〇三年、生母とめが世話になっていた男爵四条隆平のバックアップによって、前々から希望していた書家の世界に入る。翌年、二一歳で、日本美術展覧会書の部で一等賞を受けたのをきっかけに、作品が売れ始めるようになった。一九一五年、三二歳のとき、北大路姓に復帰し、翌年から、北大路魯山人の名を用いる。彼が、魯山人と名のるのは、料理に本格的に関心を持ってからのことである。

 魯山人は、『なぜ作陶を志したか』(一九三三)において、その中でも料理は特別の位置を占めていると次のように言っている。

 

なぜあなたは陶器を作るようになったか、とよく人から訊ねられるが、自分は言下に、それは自分の有する食道楽からそもそもが起こっていると答える。自分は幼年の頃から食味に興味を持ち、年と共にいよいよこれが興趣は高じて、ついに美食そのものだけでは満足出来なくなってきた。

 おいしい食物はそれにふさわしい美しさのある食器を欲求し、それに盛らなくては不足を訴えることになる。ここに於て自分は陶磁器及び漆器、即ち食物の器を自然と注意深く吟味するようになった。

 

 このように彼の芸術活動は「食道楽からそもそもが起こっている」。魯山人は最初から陶芸が好きで陶芸家になったわけではない。彼が好きだったのはうまい料理を食べたいということだけだったのであって、よりうまい料理を追及する際に、その関連から他の芸術を志向するようになったのである。

 ところが、魯山人にとって、そうした日本料理における彼の功績は、確かに、彼は「美食倶楽部」や「星岡茶寮」などを創業し、また彼自身が考案したいくつかの日本料理のメニューなどが伝えられているのだが、明確ではない。つまり、魯山人をめぐる言説は、ホアキン・ロドリーゴの『アランフェス協奏曲』のような、曲自体はよく知られているのに、それが誰による、何という曲名のものなのかが一般的には知られていないという事態とまったく正反対にあるのである。

 こうした事態を引き起こした責任の一端は、確かに批評家たちが彼の主張を知的な領域に属するものとして扱ってこなかったことにもあるが、魯山人彼自身にあることは否定できない。魯山人の陶芸や書などは、料理と比べて、後世に形を残すことができる以上、一般においても眼にすることは困難ではない。だから、他の分野と違って、料理に関しては著作というものが、考えやその実践を知る上で、重要になる。しかし、魯山人は料理に関する体系的な著作を残しているわけではなく、断片的に書かれたいくつかのエッセーがあるだけであり、そして、そのエッセーの多くは一般に入手するのにはいささか骨が折れる彼の個人的な雑誌──『星岡』や『雅美生活』、『陶心画報』、『独歩』など──に掲載され、まとまった形では長い間出版されなかった。さらに、魯山人は、偏屈でわがまま、無礼でうぬぼれの強い山師というように、生前の評判は必ずしも芳しくなく、孤立していたこともあって、ある時期から七〇年代に復活するまで忘れられた存在となっていった。例えば、魯山人は、白洲正子にとっては、口を開けば他人の悪口を言うか、自慢話をするか、単純極まりない芸術談義をするだけで、あまり魅力的ではなかったようであったし、また骨董品鑑定としてしか芸術を評価できなかった青山二郎にとっては、彼の作品にはまったく「魂」がなく、魯山人は相手にしても仕方のない、どうでもいい男だったのである。魯山人の死後すぐの一九六〇年に『春夏秋冬料理王国』が出版されるものの、京都の淡交新社が版元であったため、さほど知られることなく、ほどなく絶版となってしまった。魯山人の晩年に師事した平野雅章の編集による料理に関するエッセーを集めた著作『魯山人味道』がようやく発表されたのは、一九七四年になってであるが、しかし、それは千部の限定本として上梓されたにすぎなかった。一般にも魯山人の美食論が容易に読めるようになったのは、その『魯山人味道』が一九八〇年の四月に中公文庫になってからのことである。同じ一九八〇年の二月に『春夏秋冬料理王国』も文化出版局からハード・カバーで『魯山人の料理王国』として復刻される。

 にもかかわらず、日本料理を議論するときに、「魯山人」という固有名詞はよくあがるけれども、著作が容易に眼にすることが可能になっている今でも、知名度が功績をはるかに上回っていて、メニューが再現されることはあるものの、いったい彼が料理に関して理論的にどのようなことをしたのかがよく聞きとれないのである。魯山人が料理を趣味から芸術へと認識を転換させたことだけは理解できる。だが、それがなぜ、またいかにして可能だったのかはまったくわからない。数限りないほどの誤解と混乱が魯山人に関する、あるいは彼をめぐる(いささか通俗的な匂いのする)謎めいて思わせ振りな言説を構成していて、魯山人への接近を妨げているのだ。このような誤解というものは料理においては、確かに、よく見られる。養殖ウナギと言われているが、実は、卵からふ化させる完全な養殖はウナギにおいてはまだ実現化していない。ウナギの場合、養殖とは稚魚のウナギを捕獲し、それを生簀(いけす)である大きさになるまで養殖して、出荷しているものを意味しているにすぎず、ウナギは完全な養殖をすることが最も困難な魚の一つなのだ。それどころか、ウナギはマリアナ海溝あたりで生まれることなど大雑把な点以外はあまり解明されていない。料理は食物連鎖や食材の流通経路などを含めてさまざまな要因が入りこんでいるため、起源は定かではなくなるのだ。料理にはこうした誤解がつきものではあるが、しかし、新たなメニューを考案したり、フランス料理と日本料理の融合を試みた者はいるけれども、近代日本において料理を知的領域に所属しているとして、理論として扱ったのは、少なくとも、魯山人だけなのである。従って、批判的反省としての料理を考察することは魯山人の著作における料理の扱い方をいかに読むかということが出発点になる。

 魯山人自身は料理研究について、『魯山人味道』の「序に代えて」において、次のように述べている。

 

私たちが料理をとやかく言ったり、美味い不味いを口にしますと、ぜいたくを言っているように聞こえて困るのですが、私が言うのはそうじゃないのです。

 料理の考え方ひとつで、仕方ひとつで、物を生かして美味しくいただける工夫、すなわち経済的で美味……それです。心なしの業で物を殺してしまっていることが往々にありますが、それをもったいないと言うのです。よいものをわるいものにして食べている事実を見るたびにそう思います。

 よい材料を殺して、つまらないものにしてしまうのは、第一、造物主に対して、済まぬことであり、罰が当たるでしょう。自分として損失であり、恵まれないことでもあります。

 金の使い方の上手下手などの話は、よく人の評に上ることですが、大根一本、魚一尾も道理に変りありません。用い方の上手下手ひとつでたいへんな相違と開きが生じます。これが上手に行いますと、たいへん美味い料理となって、しかも経済でありながら、人をよろこばせますし、無知と不精で下手なことをしますと、価値の少ない、もったいないものになります。これが結果は、前者は有能であり、後者は無能でありましょう。

 料理も真剣になって考えますと、段々頭が精密になってきます。つまり、精密な頭が欠ける場合は、美味な料理ができないということであります。お互いに、どうせ日々三度ずつは食事がつきまとうに決まっているのですから、美味い不味いの区別がよく分り、物を殺さない拵え方ができることは、楽しみのひとつで、人生の幸福ではないかと思います。

 物さえ分ってくれば、同じ費用と手間を投じて、人一倍楽しみができることでもあり、また一面、分るか分らないかは、人の尊敬を受けるか侮りを受けるかの岐路に立つことでもありますから、うかうか等閑に付しておくことはうそでありましょう。

 同じ費用と手間で人より美味いものが食べられ、

 物を生かす殺すの道理が分り、

 材料の精通から偏食を免がれ、鑑賞も深まり、

 ものの風情に関心が高まり、

 興味ある料理に、生き甲斐ある人生が解る。

 こんな得分がつきまとう料理研究を、おろそかに見ては済まないと思います。その料理研究も食器美術にまで興味が発達し、鑑賞眼が高くなってきますと、それはとても面白い人生となります。

 

 こうした主張から魯山人がたんなる審美主義的な美食家でないことは明らかだろう。感性を盲目的に崇拝する審美主義的な美食家は自己閉鎖的で自己投影的な料理のための料理、もしくは純粋料理とも言うべき料理の自律性を確保しなければならないと主張するのだが、他方、魯山人にとって、料理は、いかなる意味においても、自己充足的な美食に属しているのではないのである。魯山人は料理が料理であるという完結した同一性を認めない。魯山人にとって料理は多様な可能性を持つものであり、それは経済でもあり、倫理でもあり、美学でもあり、生理学でもあり、エコロジーでもあり、哲学でもある。経済も、倫理も、美学も、生理学も、エコロジーも、哲学も料理と対立するものではない。料理は排除の原理に基づいているのではなく、必然的に諸学を統合する原理に基づいている。しかしながら、それは諸学が料理に奉仕しなければならないということではない。諸学のつながりは、魯山人の体系において、料理という形で表われる。料理を通じてあらゆるものを見ると同時にあらゆるものから料理を見ることを発見したとき、彼はこうした視点により新たな料理を見出した、と同時に、新たな諸学とその同一性を成立させてきた関係を見出したのである。

 魯山人は「美味い料理」を食べることは決してぜいたくではなく、むしろ「美味い料理」を食べようとしないことのほうがはるかにぜいたくであるという転倒を発している。彼は、料理において、食べるという立場からしか料理を把えない審美主義者と違って、食べることとつくることを不可分な関係としている。「美味い料理」を食べるには「美味い料理」をつくらなければならない。食べるということだけから見れば、「美味い料理」のためには−−保護動物を密猟してひそかに珍味などと称して食べるような−−すべてを犠牲にしても構わないとするわけだから、「美味い料理」はぜいたくかもしれないが、つくるという立場から料理を考えるとき、「美味い料理」がぜいたくであるとは必ずしも言えなくなるのだ。

 しかし、ただつくるという立場から料理を考えればそれでもう十分とするのは早計であろう。つくる=食べるという二つの行為によって料理は成立する。つくる=食べるという二つの行為の乖離が料理というものを芸術の一つにするのである。料理は、つくる=食べるの二つの行為を通して、「美味い」=「不味い」という当為関係として表われる。どちらかが欠けても、料理とは言えないのだ。つくることがそれだけでそのまま料理に直結するという認識は誤謬なのである。

 魯山人は、『日本料理の基礎概念』(一九三三)と『料理の秘訣』(一九三三)において、「料理」を、「割烹」と比較しつつ、次のように述べている。

 

料理とは食というものの理を料るという文字を書きますが、そこに深い意味があるように思います。ですから、合理的でなくてはなりません。ものの道理に合わないことではいけません。ものを合法的に処理することであります。割烹というのは、切るとか煮るとかいうのみのことで、食物の理を料るとは言いにくい。料理というのは、どこまでも理を料ることで、不自然な無理をしてはいけないのであります。

 元来「料理」とは、理を料るということなのだ。「ものの道理を料る」意であって、割烹を指すのではない。

 日本料理屋、西洋料理屋というふうに食物屋と呼ぶけれど、意味をなしていない。料理という字は、割烹のように、煮るとか割くとかいう意味を含んでいない。「料理」すなわち、理を料る、理を考えるのは、とりも直さず、割烹の内容を指すのであろう。料理は国を料理するでもいい、人間を料理するでもいい。だから、割烹店の場合は、さかなを料理する、蔬菜を料理するの意が当てはまる。

 要するに、美味いものを拵えることは、調節塩梅に合理が要る。合理的でなければならぬ一手がぜひ入用だ。

 

 魯山人は「料理」と「割烹」を区別している。一般的に料理とされているのは、実は、「割烹」のことであり、「料理」は、厳密な意味において、「割烹」と異なっている。「美味な料理」を食べることがぜいたくとされているのは、「料理」と「割烹」とを混同していることから生じているのだ。「料理」とは「食物の理を料る」ことであり、他方「割烹」とは「切るとか煮るとかいうのみのこと」であって、「料理」は、「割烹」と違って、合理的でなければならないのだ。「切るとか煮るとかいうのみのこと」だけでは、それらがいかに巧みであったとしても、「美味い料理」をつくることはできないのである。しかし、「料理」は「理を料る、理を考えるのは、とりも直さず、割烹の内容を指す」のであって、「料理」と「割烹」は完全に別個なものではない。「料理」と「割烹」をわかつのは合理的であるか否かという点にある。つまり、「割烹」とは技術、肉体的なるものであり、「料理」はその内容、精神的なるものである。「割烹」は「料理」の前段階なのだ。そして、「料理」は、その合理性のために、諸学に対して統合の原理を持っているのである。

 魯山人は、『日本料理の要点』(一九三一)において、料理の合理性を次のように言っている。

 

それならば、料理屋の料理は純理を無視して構わないかと言えば、決してそのように早合点してはならない。いや、もっとも純理を尚ばなければならないのである。単に料理として考えるとき、「合理」−−この合理を念頭から失うようでは、料理は料理として存立しないと言うべきである。しかし、実際における料理屋の料理は、かつて名僧良寛和尚に喝破され、否定されたように、まったく不合理極まるものであって、そのほとんどが無理、無意義をもって成り立っていることは、まことに遺憾である。

 その原因は、宴会料理などでお客が要求する見てくれをよしとする不純な注文にも一因があるが、また、一面には、従来の料理人の、そのほとんどと言っても差支えないほど、いずれも、無知、無能、無教養に由来すると見ねばならないのである。

 顧みれば、人間の生活は虚と実がつきまとっている。これを乖離することは甚だ困難である以上、料理もまた虚々実々の真骨髄に触れるところがなければならないのは、言うまでもないことであろう。それゆえ、結局は学問の問題であり、修養の問題であるということに帰着するのであるから、ただ、自己という人間を磨くことに努力するほか道はないのである。

 しかしながら、この人間錬磨の問題は、一番肝要なことではあるが、諸君にしても、小生にしても、さて、にわかに磨き、にわかに割り得るものではないから、そういうものであるという理解がついていれば、まずよいとする。で、この志さえあれば、いつかはそれがみについただけは、人格的にも、知能的にも、ちやんとできてくるものなのである。

 さて、料理人だが、なぜ今日まで、このように料理を不純にし、不合理にしてきたのだろう。識者をして、笑止の沙汰としか言いようのないことを、敢えてつづけてきたのだろう。小生は先に料理人の無知に由来すると言ったが、なぜ無知であるかについては言わなかった。諸君がすでに自覚するとおり、従来の料理人は、みながみな、あまりにも無修養であったということ、それが根本になっている。読書はおろか、世上のことについて、あまりにも知らなすぎる。

 

 「真の人間性に最も適合的なよい生き方とは、よき社交仲間(それもできれば多様な)とのおいしい食事にある。(略)一人で食事することは、哲学する学者にとって、不健康である」と言うカントによると、感性は対象から刺激を受けて素材を得て、悟性は感性から与えられた素材を概念によって整理し、理性は価値判断を加える。理性は、それゆえ、感性を通じて経験的に与えられたものと無関係に、認識能力を持てない。料理を味覚などの感性の問題としてしまうと、感性は一定の能力を持つ道具にすぎないわけだから、料理の現象は把えることができるが、その本質を把握することができなくなる。だが、だとすれば、料理人と家庭の主婦とでは直観的な知識に違いはないということになってしまう。それゆえ、魯山人は料理において味覚という感性を第一に持ってくることを退ける。料理は味覚を含めた感性の問題ではなく、知性的な精神の問題なのである。魯山人によれば、料理人が「料理を不純にし、不合理にしてきた」のは、「無知」であり、「無知」であるのは、「無修養」であるからなのだ。一般の料理人たちは料理に関して不完全な認識しか持っていない。人間の認識は一定の能力によって規定されるものではなく、「修養」と「学問」によって、その能力を徐々に高めていくことによりさらに深まっていくものであるから、当然、料理人と家庭の主婦とでは料理に関する知識の内容が異なっている。認識能力は、「修養」と「学問」によって、より高次の状態へと発展する。この場合、「学問」と「修養」は、「人間の生活」につきまとっている「虚」と「実」を区別することができると信じている素朴な審美主義的な美食家たちと違って、「これを乖離することは甚だ困難である以上、料理もまた虚々実々の真骨髄に触れるところがなければならない」のであるから、「虚」と「実」を含んだものを志向することなのである。すなわち、「料理」は「虚」と「実」の矛盾・対立を弁証法的に止揚しているのだ。「虚」と「実」の区別は「合理」性とは無縁である。「実」であるから「合理」的であり、「虚」であるから「不合理」的であるとは、「虚」と「実」をわけることができない以上、言えない。人間の生活する現実はただあるがままにある。確かに、われわれは生活している際に、「虚」や「実」を感ずることはある。しかし、それは絶対的なイデアとしてではなく、主観的な確信あるいは主観的な納得としてあるにすぎない。美的判断は主観的であるが、普遍性を要求する。それは用いられる材料が客観的だからである。料理において美的であるか否かという議論が成り立つのは、材料を知り、それに働き掛けることの違いがあるからである。「虚」=「実」よりも、「合理」=「不合理」を考えるほうがはるかに有意義である。従って、いい料理人と悪い料理人の差異はこの認識能力にあり、合理性はア・プリオリなものではなく、その認識の高まり方それ自体にほかならない。

 つまり、魯山人の料理についての主張はカント的ではなく、ヘーゲル的なのである。田中康夫は、『ハイライフ、ハイスタイル』において、「日本に於いてはフランス料理がある種、純文学的存在と思われている」と指摘しているが、魯山人は、日本の美食家は、ナショナリストを除けば、一般的にフランス志向であるのに対して、ドイツ的な思考様式をしている。ヘーゲルもワイン好きだった。魯山人はワインや日本酒、ウィスキーなどよりもビールを好み、毎晩、ビールを欠かすことはなかった。お客をもてなす際にも、彼はビールを勧め、自らもそっせんしてビールを飲んだ。夕方、風呂からあがると、食事の前に、ビールを飲み始める。お客と二人で小ビン一ダースほどあける。これは当時の美食家としては異例のことである。ドイツ料理はフランス料理と比べるまでもないほど世界的知名度が落ちることから考えても、美食家たることは、日本において、フランス派の知識人となることと同一であると見なされているのは当然と言えば当然であろう。

 ただし、彼はキリンのラガー・ビールを好んでいたが、キリンのラガー・ビールは、ビールの中でも、ある種類に属している。「楽しきはビール。苦しきは旅路」とシュメールの諺にあるように、ビール自体の歴史は古く古代エジプトですでにつくられていた記録がある。当然、当時は今でもイギリスなどでつくられているあまり冷やさないで飲むビター・ビールの一種である。今日のビールは大きく次の五つにわけられる。第一に、バドワイザーに代表されるアメリカン・ビールであるが、これは麦芽以外の素材にコーン、スターチ、米などの副原料を使って下面発酵させたビールである。副原料を使うのはコスト・ダウンと味の調整のためなのだ。色が黄金色で、ホップの苦みをおさえ、清涼感が強い。ビールの醸造法には上面発酵と下面発酵がある。前者は発酵温度が二〇−二五度で、後者は五度くらいである。発酵すると、上面発酵は酵母が浮いて、麦芽の強い濃厚な味となり、下面発酵は下に沈み、淡白で喉ごしのさわやかな味となる。産業革命以後、下面発酵が、世界的には、主流となった。キリンのラガー・ビールや欧州旅行の際に彼が一番気にいったデンマークのツボルグなどはこのアメリカン・タイプに属している。第二に、すっきりとした味わいで淡色のビールで素材に副原料を用いず、麦芽百パーセントで下面発酵させたピルスナー・タイプと呼ばれるものである。チェコのピルゼンが発祥の地で、一九四二年、ピルゼンの市民醸造所でつくられたピルスナー・ウルケルが最初である。ドイツのビールはこのタイプで、(EUにおいて輸入規制であると問題となった)麦芽とホップ以外の入ったものをビールとは認めないと法律で決められていたこともあって、われわれが毎晩飲んでいる(ロシア語で女性性器を意味する)ヱビス・ビールはこのカテゴリーに入る。第三に、サミエルスミス・ブラウンエールに代表される、上面発酵させた中濃色、濃厚な味で、イングランド産のものが主流のエール・タイプと呼ばれるビールである。第四に、ベルギー産のモートサビットに代表されるランビック・タイプと呼ばれる麦汁を二年以上熟成させたもので、その中に、チェリー、カンスなどの酸味のあるフルーツを浸したものが多く、シャンパンやワインのような味わいがある。最後に、ベルギーやオランダなど世界六ヶ所でトラピスト・タイプであるが、それは中濃色から濃色の上面発酵のビールで、鋭いコクが特徴である。その醸造法がベルギーのスクールモン修道院で確立されたためか、世界的に評価の高いのはベルギー産で、特にシメイは最も安定した生産量と評価を誇っている。瓶の中での長期熟成が可能であり、七年物や十年物といったものがある。

 しかし、当時のフランス派知識人は、哲学よりも、文学の領域にかかわっていた。そうしたフランス派知識人に属していた中村光夫は、魯山人宅への訪問記である『北大路魯山人』において、「芸術家には、自分のみを削って芸術への犠牲に捧げるストイックと、芸術を究極においては自分の生活を豊かにするための手段と考えるエピキュリアンと二つの型に大別できるように思いますが、山人はいってみればその中間のややエピキュリアンの側に立つ人のようです」、と述べている。すなわち、魯山人は「いわば禁欲的意思に支えられた享楽家」であって、ドイツ的な認識によってフランスを中心的代表とする料理を考察したのである。魯山人は、白樺派が「敵意」の対象でしかなかったように、文学的レトリシズムを「不合理」と嫌悪していた。それはフランス派の中でも歴史的認識をモチーフにしていた中村光夫を魯山人は好意をこめて「天才的に美のわからぬ奴」と評していることからも明らかであろう。それゆえ魯山人はドイツ哲学に近い思考を保持していたのである。魯山人の思考がヘーゲルに近いことはヘーゲルの『精神現象学』における次の言葉が告げてくれる。「いったい意識とは己れ自身において己れの尺度を与えるものであるから、探求すると言っても、意識が己れ自身を己れ自身と比較することである。なぜと言って、今しがた立てられた区別は意識のうちに属しているからである」。ヘーゲルによれば、「意識」は本質的に二項対立的な原理による運動としてあるわけだが、この「区別」はそのものについて知ろうとする意識とそれを見ていることが真実なのかという二重の契機に基づいており、その二重性によって対象に向き合っているのだ。同様に、料理をするものは二つの契機を持たなければならない。一つは対象と向かいあってそれに対して実践的な態度をとるような意識の側面であり、もう一つは意識と対象の関係を全体を想像的に対象化しようとする意識の働き、すなわち自己とその外側の対象の関係についての像をつくりあげる働きである。「料理」はこの過程そのものであるのに対して、「割烹」は前者の契機だけしか持っていないのだ。従って、意識と対象の関係を対象化していくことによって、これら二つを高度化していくことが合理化なのであり、この運動の深まりが認識の深まりを意味している。

 このように「料理」はヘーゲル弁証法的な合理性に基づいていなければならないわけだが、『美食倶楽部』の谷崎潤一郎にとって料理がフランス料理・トルコ料理と並んで世界三大料理の一つと呼ばれる中華料理であるように、魯山人にとって、そうした料理は、具体的には、日本料理を意味している。ちなみに、彼の美食倶楽部は、当時、大阪朝日新聞に連載していた谷崎の『美食倶楽部』に由来しているのである。

 魯山人は、全エッセーの中で最も重要な作品の一つであり、日本賛美をテーマとした『味覚の美と芸術の美』(一九三五)という極めて危うい論理を展開している作品を、次のような言葉で閉じている。

 

これ私が前々から感じている日本賛美の由って来るところであるが、近来流行の日本自慢はよくこの自覚に立っているかどうか。今流行の日本主義はともかくとして、幸いにその気運が昂揚されている折柄であるから、この機を逸せず日本の真髄をしかと掴み、真に日本の特徴、美点についての自覚を高め得れば、まことに結構である。切にそれを望んで止まぬ。

 

 魯山人は自分の「日本賛美」と「近来流行の日本自慢」とを区別している。一九三五年、すなわち昭和十年は軍需産業の拡大によって経済的には安定期であった。それは日中戦争が勃発する一九三七年まで続くことになる。この一九三五年に、美濃部辰吉の天皇機間説問題が起こり、芥川賞と直木賞が始まった。そして、島崎藤村の『夜明け前』や和辻哲郎の『風土』、西田幾多郎『哲学論文集第一』、戸坂潤の『日本イデオロギー論』が相次いで出版され、日本論や日本文化論が盛んに論議の対象となった。魯山人の言う「近来流行の日本自慢」とはこうした風潮のことであろう。マルクス主義文学が完全に崩壊した後のこの昭和十年前後は文学史的には「文芸復興期」と呼ばれているが、作家たち川端康成や徳田秋声、永井荷風の作品に登場してくる男と女を見れば「近来流行の日本自慢」が明らかになる。彼らの作品を読むと、まったくこの程度の女としかつきあったことがないのかねと呆れてしまうと同時に、まあこの程度の男ではそれもやむをえないなと納得してしまうことは間違いない。

 魯山人は、『味覚の美と芸術の美』において、日本賛美の根拠である「自然」をめぐって次のように述べている。

 

すべての物は天が造る。天日の下新しきものなしとはその意に他ならぬ。人はただ自然をいかに取り入れるか、天の成せるものを、人の世にいかにして活かすか、ただそれだけだ。しかも、それがなかなか容易な業ではない。多くの人は自然を取り入れたつもりで、これを破壊し、天成の美を活かしたつもりで、これを殺している。たまたま不世出の天才と言われる人が、わずかに自然界を直視し、天成の美を掴み得るに過ぎないのだ。

 だから、われわれはまずなによりも自然を見る眼を養わなければならぬ。これなくしては、よい芸術は出来ぬ。これなくしては、よい書画も出来ぬ。絵画然り、その他、一切の美、然らざるなしと言える。

 さて、次に問題となるのは、しからば、自然であれば、すべて美であるか、自然のものはすべて美味であるか、という疑問が起こることだ。およそ自然ほど不可思議にして玄妙なるものはない。天の成すや、一定の目的あるが如く、またなきが如くである。天は光を注ぎ、熱を与え、また雨を降らして木草を育成する。そこになんらかの目的があるように思えぬことはない。しかるに、また天は時に雷鳴をはためかして、何百年という長年月はぐくみ育ててきた老樹をも一瞬にして焼き捨ててしまう。樹木を育てるのも自然であれば、これを枯死せしめるのも、また自然である。人に智を与えて生存を可能ならしめたのも自然であり、また、その智によって、戦争の如き破壊を行わしめるのもまた自然なのだ。人はよく自然を不自然であると言うが、私をして言わしむれば、自然もまた明らかに自然である。しからば、自然はなにを目指し、なにを行わんとするか、けだしわれわれ人智のよく量り得るところではない。

 ただわれわれが成し得ることは、かかる自然の力の存在を悟るということだけである。われわれがこの世で生を享けたのも自然であれば、また死に行くのも自然である。そこには、われわれがどうしようとしても、どうにもならないあるものが厳として存在しているのである。それが自然であり、運命と呼ぶことも出来る。少々話が飛躍し過ぎたようだ。そういう大きな根本的な意味での自然については、また別の機会に述べるとして、当面の問題は、自然がつくり出した個々のものの良し悪しということだ。

 さきに、私はまず自然を見る眼を養わなければならぬと言ったが、これは言い換えれば、自然の中にある美を見出すことである。自然は美の源泉であると言ったが、自然そのものにも、美なるあり、美ならざるあり、美味なるもあり、美味ならざるもある。

 ここに美と言い、美味と言うのは、もちろん、われわれ人間の感情から判断する言葉であって、自然そのものにとっては、いずれも同じ価値であるに違いなかろうが、それはそれとして、例えば、同じ大根でもその種類により、また、その生い育った土地の状態、すなわち、風土の如何によって美味なるもあり、美味ならざるもあり、そこで、よい料理をしようとすれば、まず大根の持ち味を活かすために、新鮮なる大根を手に入れることが必要であり、第二には、よい種類の大根を選ぶということが料理人の心得として必要である。

 こう考えるとき、すべてよいものは、よい自然から生まれるということが言える。言い換えれば、自然がよければ、そこに生まれるすべてのものがよいと悟ってよい。

 

 魯山人の主張は、ドイツ哲学に基づいた方法論を用いている和辻と比べると、いかにも素朴であるかに見えるが、見かけ以上に複雑である。彼は何にもまして「自然を見る眼」、すなわち「自然」に関する認識を養う必要性を説くが、魯山人の「自然」は文化に対立するものでも、ロマン主義的な主体と親和するものでも、自然環境でも、眺めるべきものでもない。「自然」とは一つの全体性である。「自然」はわれわれが「この世で生を享け」、また「死に行く」ところのものであり、「われわれがどうしようとしても、どうにもならないあるものが厳として存在している」ものなのだ。魯山人は「自然」を人間の生命の領域に働いているため「運命」と言っているが、「自然」を「運命」と同一のものとしてとらえるとき、それは空間的なものにとどまらず、時間的なものを含むことになっている。料理は「自然」そのものではなく、そのミメーシスであるが、「美」は自然から見出すものであって、自然をただたんに模倣することが「美」なのではない。それは、自然との関心をもって行われる交渉の中で関わりあいによって、見出されるものなのである。そこでは善は美であり、美は善となる。人間はときには敵対的に感じられることもある自然と、そこに「美」を認めることによって、「運命」として和解するのである。魯山人にとっての合理性は、ヘーゲルが『精神現象学』において主張したように、真なるものの契機と知なるものの契機の二つの契機が絶え間なく運動して徐々に深く「自然」を認識していくこと、すなわち「自然」に対する認識の論理なのだ。

 「美」や「美味」は「自然」から生ずるのだから、人間的なものであっても、主観的なものではない。従って、「美」や「美味」は、「われわれ人間の感情から判断する言葉であって、自然そのものにとっては、いずれも同じ価値であるに違いなかろう」が、人間にとっては、「よい自然」と「悪い自然」がある以上、料理を考える魯山人の視点は、「自然」の問題からそれを見る人間の問題へと連なっていくのである。

 魯山人は、『日本料理の要点』において、「料理」は「人間の問題」であると次のように言っている。

 

頭もなし、知恵もなし、修養もなし、天才もなし−−と言った料理人が、今日、料理でもって飯が食っていられるというのは、つまり、彼らよい頭脳の持ち主が、みずから料理づくりに頭を振り向けないからの僥倖である。幼稚な人間がつくった料理、それを幼稚でない人間が口にしているのである。ここに思い至れば、すでに主客の調和を破っている無謀に、恥ずかしさを感じないではいられないではないか。だから、故井上馨候のような趣味に嗜好に至らざるなく精通した食通、料理づくりにまで通じた人であっては、他人に料理をまかしておくことができないのは、当然のことである。

 またまた人間の問題に陥ったが、小生自身が、古人のいわゆる「文は人なり」と喝破されたことに一にも二にもなく同感するものであるがゆえに、料理づくりにおいても、もとより人であると深く信ずる。話はややもすると、人間の問題に帰納するが、とにかく、料理は複雑であって単純ではない。上中下の生活者個々に美食として満足を得せしめるには、上中下三段の料理を、ことごとく知らなければならないのはもちろん、この上中下三段の相手を向こうにまわして、しかも、時と場合による適宜の処置を誤らないコツを心得なければならない。

 

 魯山人にとって、「料理」はトータルに「人間の問題」である。人間に関する認識を深めていくことによって、料理についての知識や理解もより高い次元へと発展していくのだ。「料理」がより高い次元へと発展していく契機を持っているのに対して、「割烹」には発展性がない。人間の物事の認識に基づいた「料理」とはそういうプロセスの深まりであり、概念的な運動があるのである。「料理」とは素材に対する認識の論理、それに自分自身に対する認識の論理を経て、「自然」に対する認識の論理と発展していくプロセスそのものなのだ。素材を深く知っていくとき、と同時に、自分自身や自己と「自然」との関係に関する知識がいっそう深まっていくのである。客を罵倒したり、気にいらなければ仕事をしないような料理人は、料理人の存在の本質的な意味をとらえるのにいたってはおらず、認識が浅く、料理人としてなど最初から失格なのだ。

 人間はそうした社会的な存在としての自分自身を「修養」と「学問」の二つの契機によって自覚するのである。「修養」は自分の生が必然的に社会の多くの他の人間との関係によってのみ可能であることを教え、「学問」はさまざまな人間の広がりと営みの意味をよりよく告げる。「修養」と「学問」を深くつんで、物事に関する認識を深めていくと、人間がなぜ、またどのようにこの自然と必然的な関係を持っているのかという深い理由が自然と「理解」できるようになり、その認識に基づいてつくられた料理は「自然」に近づいていくのだ。

 魯山人は、『日本料理の要点』において、日本料理における調味料の少なさの理由をそれが自然に近いからだと次のように述べている。

 

料理通のひとりであるという桜井という工学博士は、歳七十にも余る人であったが、かつての文藝春秋社の催した食物についての座談会の席上、私たちに向かい、「日本には調味料、補助味の類が、ほとんど発明されていない」と言って、さも見くびったように慨歎されたのであったが、それは日本が文明に遅れているためでもなければ、科学に無能なためでもないのである。その国の食品補助味や調味料が数少ないというのは、その国の食品原料が美味であることを物語るものであって、桜井博士が誇りがましく言いわれる西洋料理に調味料、補助味の豊富なことは、とりもなおさず、西洋の食品原料が素質で、その持ち味に欠けるところがあるためにほかならないことを、端的に物語るものなのである。

 

 よい素材を選び、それぞれの素材に手を加え、素材から「自然」の持つ隠れたものを合理的に引き出すことが料理だとすれば、始まりと終わりは相互に依存しており、潜在的に同一である。「結果が始まりと同一であるのは、始まりが終わり(=目的)であるからにほかならない」(『精神現象学』序文)。すなわち、料理は「自然」をめぐる一つの生成運動なのであり、「自然」の真の完成こそが料理である。日本料理において調味料が、他の世界の料理と比べて、発達しなかったのは、それが最も「自然」に近いからであって、日本料理が未熟だからではない。日本料理が「自然」に近いのはすぐれた「自然」に根を持っているからであり、「自然」に近いがゆえにそれは調味料を必要としない。日本料理が、比較的、香辛料を使わないのは、日本列島では平地が狭く、河川の流れが急であるため、食材の輸送が短時間で行えることにより、臭みを消さなくてもすんだからである。また、日本の多くの水が軟水であるが、これは肉料理には不向きであるのに対し、野菜料理の旨味を引き出すのに適している。ちなみに、肉料理のメニューを豊富に抱える沖縄の水は硬水である。料理の素材は「自然」のものであるから、料理は「自然」に近づくことが目的である。従って、日本料理とは料理の完成にほかならない。

 だから、魯山人の合理主義は「自然」にある原理を見出すことなのである。魯山人は、『私の作陶体験は先人をかく観る』(一九五三)において、「どんなものだって人間が作ったものであります以上、作為のないものはない。(略)その作為が何を物語っているかが問題であります。ただいい作為と悪い作為と二種ありますから、いい作為をもっておるものが名作となる、こういうことだと私は信じておるのです」、と言っている。「調味料、補助味の類」を用いることは「自然」の基づいている法則を歪曲してしまうにすぎない。「自然」の法則を発見し、それを料理として実現するとき、その料理は合理的なものに仕上がる。「自然」の合理性が料理の合理性ほかならない。「その国の食品補助味や調味料が数少ないというのは、その国の食品原料が美味であることを物語る」と言っているように、「食品補助味や調味料が数少ない」国の「自然」は「自然」の原理が発見しやすいのである。そして、「自然」の原理を見出しにくい国では「調味料、補助味の豊富」になってしまう。料理は「自然」の原理のミメーシスなのだ。日本料理はこの「自然」の原理を最も引き出している。それは、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(ヘーゲル『法哲学』)、ということなのだ。こうした主張をしているからと言っても、ヘーゲルは理想論に酔うものではない。彼は現実を目的から見ることによってそこから合理性を見出す。ヘーゲルはさまざまな可能性がありえたにもかかわらず、その中の一つが現実となったことの合理性を確認するのである。彼にとっての合理性は思弁的なものではなく、現実的なものなのだ。彼の合理主義は、この意味において、近代合理主義からは離れている。しかし、彼は無批判的な現状肯定論者ではない。ヘーゲルにおいて現実にあるものすべてが理性的なのではなく、現実的なものは偶然的なものを除去した理性的法則に貫かれている本質的なものを意味しているのである。このようなヘーゲルの見解はあながちでたらめではない。例えば、数学的に、乱数表を構成する規則性が存在しない「でたらめ」は人間には、クセがあるため、不可能である。人間は、必ずしも意識していないが、ある規則に基づいて生きているのだ。魯山人の思考がヘーゲル的であることは、こうした「自然」と「合理」に関する認識からも強調されよう。

 日本料理を賛美しているからと言っても、魯山人はたんなる伝統回帰論者ではなかった。例えば、彼は既存のすき焼きやしゃぶしゃぶを牛肉の調理法を知らない時代に生まれたこともあって牛肉の性質をまったく無視したものであると認めず、独自のすき焼きを編み出した。また、魯山人は徒弟制に対して否定的であった。魯山人は、『青年よ師を無数に択べ』(一九五三)において、「私はこの古い昔の人達の遺した作品を師と仰げと言うのである。何を戸惑して今時の先生から芸美を学ばんとしているのか。束縛を受けながらも一人の先生に師事して学ぶ要のあったのは、過去の事である。古美術が遺っている。写真製版が世界中の美術を観せてくれる。活字がありとあらゆることを教えてくれる世の中となっている。一人の師を仰ぐ要は無くなっている」、と言っている。魯山人はよい芸術は徒弟制からよりも、過去の作品から学ぶこと、すなわちテクスト・クリティックから生まれることを提唱していたのだ。そして、それは芸術に向かうものに「自由」を与えてくれる方法論なのである。

 魯山人は、『私の作陶体験は先人をかく観る』において、芸術に必要なのは「自由」であると次のように述べている。

 

 人の悪口を言って悪いようですが、近ころは民芸派という一派がありまして、これが何でも民芸に限るということを主張をするし、したがるのである。しかし、どんなことでも何に限るということは、めったに言えたものではない。そんなことを言うと、そういうことに捉われて自由がきかなくなる。イデオロギーというのは、あるものによってはいいことでしょうが、もっと視野を広くして、自由自在の振舞いが出来るのがいいと思うのです。茶碗はのんこうに限るというようなことを言うのは、夕顔棚に体を縛りつけて涼をとらんとする人のようだと私は思うのです。夕涼みというものは、素っ裸でむしろの上に寝ころんでおるから涼がとれる。自由だから涼がとれる。しかし、なんぼ夕顔棚の下でも、イデオロギーに縛りつけられておったのでは、まず涼はとれぬのじゃないか。だから、そういうものに縛られないように、自由な境地に自分を置くことが必要だと思うのです。

 

 日本の陶芸家は、通常、一つの技法しか習得しない。それを磨きあげていく職人的姿勢が評価される。一方、魯山人はさまざまな芸術にとりくんだ。それは、彼が一つのものに縛られることを拒んだから、すなわち「自由」であるためだったからである。芸術は、「夕涼み」のように、快であるので、「自由」なくしてはよい芸術作品など出現し得ない。「イデオロギー」に縛りつけられたプロパガンダ芸術など「自由」を欠いており、最初から芸術作品としては失格なのだ。

 だが、「自由な境地に自分を置くこと」には、芸術家個人にはどうすることもできないある限界がある。それは歴史にほかならない。魯山人は、『私の作陶体験は先人をかく観る』において、「それからもう一つは時代の問題である。木来でも、頴川でも、道八でも、室町時代に生まれていたら、周辺の環境がいいから相当いいものにしたに違いない。徳川末期になって来ると周辺の環境が悪いから、浮世絵を除いたら何もありはしない。狩野派の絵描きなどは、問題にならぬでしょう」、と言っている。芸術において個人の力は、確かに、必要ではあるが、「時代」がよくなければそれは十分に発揮されない。「自由」が達成されている時代でなければすぐれた芸術は生まれないのである。すぐれた芸術が生まれたということは「自由」がその時代には実現されていたことを表わしているのだ。いかによい「自然」に恵まれていたとしても、「自由」のあるよい「時代」がなければ、よい芸術は出現しないのである。

 ヘーゲルは、『歴史哲学』において、「世界史とは自由の意識の進歩を意味する」と世界史の発展の研究に関して次のように述べている。

 

 前に述べたように、世界史は自由の意識、自由の精神の発展と、この意識によって産み出される(自由の)実現の過程とを叙述する。発展は段階的な行程であり、事物の概念から生ずる自由の諸規定の全身的な系列であるという意味をもつ。概念一般の論理的な本性、一層立ち入ったいえば、概念の弁証法的本性、すなわち概念が自分自身を規定し、諸規定を自分の中に措定するとともに、またこれらの規定を再び止揚し、この止揚を通して肯定的な、しかもさらに豊富な、ヨリ具体的な規定を獲得するということ、──この必然性と、純粋な抽象的概念規定の必然的系列は、論理学の中で叙述される。われわれは、ここではただ、(発展の)各段階が他の段階と異なるものとして、それぞれ特有の原理をもつということを指摘しておくにとどめる。このような原理は歴史の中では精神の規定性であり、──それぞれの民族精神である。歴史の中では民族精神は具体的なものとして、その意識と意欲、その全現実性のすべての側面を表現する。すなわち、その宗教、その政体、その人倫、その法律組織、その慣習、及びその学問、その芸術、技術的技倆などは共通の原理である民族精神の封印を帯びている。それで、これらの特殊的なものは、この一般的特性、すなわち民族の特殊的原理から理解されるが、また逆に歴史の中に現われる個々の事実を通して、この特殊性の一般的原理が発見されなければならない。一定の特殊性が実際に一民族の特有の原理をなしているという点は、経験的につかまれ、歴史的に証明されなければならないものである。もっとも、そのためには、熟練した抽象の能力のあることが前提されるとともに、またすでに理念を熟知していることが前提される。つまり、研究者は、問題の原理の含まれているその領域を、いわばア・プリオリ(先天的)に熟知していなければならない。

 

 世界史は「自由の意識の進歩」であり世界史研究はその原理を認識するものだという彼のヴィジョンの真偽を──帰納法的に──問うことは見当はずれである。「いかなる民族といえども倫理的に自滅する権利はもっていない。革命が民族の果たすべき義務となったときにそれを成し遂げる倫理的な力をもたぬ民族にこそ禍いあれ」(テオドール・リップス『倫理学の根本問題』)。ヘーゲルは、『歴史哲学』において、「この講義の対象は哲学的世界史である。いいかえると、われわれは世界史からして、世界史に関するいろんな一般的反省を引き出そうとしたり、また世界史の内容を例として、世界史に関する一般的反省を説こうしたりしようとするのであるが、この対象はそんな世界史に関する一般的反省ではない。むしろ、それは世界史そのものである」と述べている。彼は世界史をある諸原理からあくまでも演繹的に考察するフィクションの一種であることを意識しているのである。かりにこの原理を置き換えるならば、別の始まりと終わりに規定された世界史が導き出される。だが、ヘーゲルが「自由」を原理としたことには哲学史的な必然性がある。レオンハルト・オイラーの「ケーニヒスベルクの橋」という一筆書きの問題で知られるケーニヒスベルク出身のカントは、『純粋理性批判』において、古代ギリシア以来の「世界とは何か」という問いを四つに整理して、超越論的理念の四つの自己矛盾としてそれらの証明の不可能性の証明を提示している。それはちょうど、古代ギリシアの三つの難問と呼ばれた問題――「コンパスと定規を用いて、与えられた任意の角を三等分せよ」・「与えられた任意の正立方体の二倍の体積を持つ正立方体を作図せよ」・「与えられた任意の円と同じ面積を持つ正方形を作図せよ」――がその不可能性を証明することによって、十九世紀になって、解決したように。「ケーニヒスベルクの橋」問題とは一七〇〇年代のケーニヒスベルクを流れる川に七つの端が架けられており、同じ橋を二度通ることなく、すべての端を渡るにはどうしたらいいかというもので、オイラーがこれを解いたことによりトポロジー(位相幾何学)が始まった。図形の持つ量的側面──長さや面積、体積、角度──を取捨して、質的側面に注目すれば、パイプとドーナツ、コーヒー・カップは同一であるというトポロジーの発想は、カントの「共通感官」に近い。その上で、カントはこれまでの哲学的議論の証明不能を宣告し、思弁的問題に知的努力を費やすこと以上に、「自由」の問題を論ずることを説いたわけだが、ヘーゲルはその「自由」の問題から歴史を考察することを試みた。ヘーゲルの歴史の終焉といった発想は、その時代における問題系を原理として、それが発展してくる経過を世界史的ヴィジョンとして構成するものである。それぞれの出来事には意味はないが、それが因果関係の中に置かれたときに歴史には何らかの意味や目的があるというヘーゲルの歴史認識は、近代歴史学から見れば、はるかにロマンス的であると言ってよい。世界史は、ヘーゲルとって、「自由」のロマンスなのだ。ロマンスである以上、そこには円環が用意されていなければならず、円環をつなげることそれ自体が歴史に意味や目的を生み出す。ロマンスは最も書き手の願望が表われやすい形式を所有しており、それはその願望が導き出す円環的な必然性に貫かれているのである。ところが、ヘーゲルを援用して歴史の終焉を説くものにはカントに対する批判としてヘーゲルが歴史哲学を展開したことの歴史的意味が失われている。今日にあっても「自由」の問題は論ずる価値は十分にあるが、カントの宣言における「自由」の問題とはかなり趣を異にしている。「自由」はもはや観念でも理念でもなく、一つの関心であり、一つの活動である。真の「自由」はプロシアで実現されたのではなく、共産圏の崩壊によって達成されたというフランシス・フクヤマなどの主張はこうした見解の典型である。ヘーゲルは真の「自由」はプロシア国家において実現されているという結果を導き出しているが、この結論が不十分であるから、それを引きのばせばよいと考えるのは早計であろう。ヘーゲルの場合、彼の歴史ヴィジョンは事実に対応しているのではなく、権利として論じられているのであって、「自由」の問題こそが哲学的議論の中心であるという前提があるのに対して、共産圏の崩壊による「自由」の実現という議論は権利ではなく事実として語られ、「自由」は政治的・経済的領域に属していることを明らかにしているのである。フクヤマにおいては、ヘーゲルと違って、「自由」の哲学史的な規定性が欠けているのだ。ヘーゲルにとって、「自由」は歴史に所属する概念、すなわち歴史そのものであるが、フクヤマにとっては歴史が「自由」に所属する概念、すなわち「自由」そのものなのである。つまり、フクヤマの考察はヘーゲルに対するアイロニーにほかならない。

 ヘーゲルは、『歴史哲学』において、「自由」について次のように言っている。

 

 精神の本性は、精神と正反対のもの(物質)との比較によって認識される。物質の実体が重力であるとすれば、精神の実体、本質は自由であるといわなければならない。ところで、精神がもついろいろの属性の一つとして自由もあるといえば、誰にも異議はあるまい。しかし、哲学は進んで、精神の一切の属性が自由によってのみあり、すべては自由のための手段にすぎず、すべてはただ自由を求め、これを招来するものであるということを、われわれに教える。自由が精神の唯一の真理であるということこそ、思弁哲学の認識(の成果)にほかならない。物質は中心点に向っての衝動であるかぎりにおいて重さをもつ。物質は本質的には複合体であって、個々の部分から成るものであるが、その統一を求めるものであり、それ故に自分自身を止揚しようとし、自分の反対(統一)を求める。しかし、物質が、この反対のものに達するときには、それはもはや物質ではなく、物質としては消滅する。つまり、物質は観念性を求めるものである。というのは、物質は統一の中では観念的となるからである。これに反して、精神は自分の中に中心をもつものである。精神は統一を自分の外部にもたずに、これを(自分の内部に)すでに見出して、もっている。精神は自分自身の中にあり、また自分自身の許にある。物質はその実体を自分の外部にもつが、精神は自分自身の許にあるものdas Bei-sich-selbst-sein)である。そしてこれこそ、まさに自由である。なぜなら、もし私が他に依存するものであれば、私は自分でない他者に関係することになり、したがって私はこの外的なものを離れては存在することができないからである。だから、私が私自身の許にあるとき、私は自由なのである。

 自由は自由が実現する当の目的であって、また精神の唯一の目的である。事実またこの究極の目的は、世界史の営みの目標となったのであり、地上の広大な祭壇の上で、また長い時間の経過のなかで、この目的の前にあらゆる犠牲が捧げられたのである。この目的こそ、全過程を一貫し、最後に実現されるところの当体であり、また一切の出来事と境遇との変遷のなかにあっても、ひとり不動なものであり、同時にそれらのなかにあって真にそれらを動かすものである。またこの究極目的は、神が世界に求めるその目的である。

 

 「自由」とは「私が私自身の許にある」ことであり、「自由が実現する当の目的」にほかならない。「自由」とは何ものにも拘束されない「自由」を求めることなのである。「つまり、この(自由の)カテゴリーを志向することこそ、真に本質的なものを志向することなのである」。こうしたヘーゲルの「自由」概念は今日おいてはもはや古びていることは否定できない。「自由」は、「志向すること」が達成する方法であるように、権利であって、事実ではない。ヘーゲルの「自由」に関する考察は抽象的である。ヘーゲルにとって、「自由」は真理であるが、真理は多数決によって決定されるものではない。ヘーゲルの「自由」は、フクヤマとは違って、国家権力の制限を指してはいないのだ。ヘーゲルのプロシア国家において真に達成されているという主張から彼の「自由」は官僚主義のことを意味していことは明らかであろう。後にビスマルクによる強力な官僚制に基づいた国家統制経済のプロシアは「自由・平等・博愛」を掲げて革命を起こしたフランスを凌駕することになる。国家資本主義プロシアは産業の発達だけでなく、福祉政策をも実施した。フランス革命が達成しようとしたものはこのような官僚主義なのであり、むしろ、それはプロシアにおいて実現化した。確かに、産業資本主義の状況では、国家や官僚による保護は経済的発展において有効であるかもしれないが、消費資本主義では経済発展を抑制してしまう。しかし、自由経済は自由放任することからはその存立を保証されない。自由放任では、トラストやシンディケート、カルテル、コンツェルンなどがいつでも発生しかねねないのだ。自由経済が行われるためには、公正取引委員会によって独占禁止法を運用して、「自由」を保護しなければならないのである。官僚主義は「欲望の体系」であるところの市民社会的な個々人の欲望を調停してくれるがゆえに、「自由」を結果的にもたらしてくれる。自由放任にしていると、さまざまな「欲望」によって、「自由」は脅かされることになってしまう。人民が「自由」であるためには、国家の保護が不可欠なのである。ヘーゲルは「法」の下での「自由」を主張しているのである。法の前での権利の平等がヘーゲルの「自由」なのだ。政府と国家は同じものではない。ヘーゲルの関心は政府の形態ではなく、国家にある。政府の形態がいかなるものであるかだけで、その国に自由があるか否かは判断できないのである。つまり、国家とは「民族精神」の政治的形態なのだ。

 魯山人の提唱する「自由」も自由放任的なもしくは自由経済的な自由ではない。例えば、魯山人は、ヘーゲル同様、商業資本主義に否定的である。彼は、『日本のやきもの』(一九五五)において、「言わば桃山時代以後の時代は、かかる美的芸術的雰囲気に満ちた時代であったと言うことが出来る。(略)十八世紀以降、徳川幕府による封建的支配が衰え始めるに伴って、この日本的美の伝統、従って日本の陶磁器の美的伝統もまた漸く衰え始めた。他の工業分野におけると同様に、陶磁器製作の面でも、曾てのギルド的制作方法が商業主義的大量生産方式の色彩を色濃く帯びるに従って、この趣味的美的陶磁器生産も、また時代の波に置去られ、孤立化し、少数化するに至るのである。現代日本にも、この美的陶磁器生産の余喘は、各地にこれを求めることは出来るけれども、殆どが個人作家の小規模な、陶磁器製作という形があるか、あるいは一地方の一握りの需要を充たすための、地方的な特色ある型の、ある種の什器製作という衰微した形でしか残されてはいない。しかし、鑑賞家乃至購買者の側にあっては、曾ての陶磁器の美の伝統を理解し、これを愛護しようという意図は、まだまだ多数の人々の胸底に残っている」、と述べている。魯山人は徒弟制には反対であるが、その徒弟制を破壊した資本主義的発達には肯定的ではない。と言うのも、彼にとっては、あくまでも理念が先行しなければならないからである。理念以外のものが突出すると芸術の「自由」が制限されてしまう。生産様式の変化は、陶器や料理といった分野では、それが生活に直結しているために、他の芸術以上に影響を被りやすい。商業経済はここの利益や欲望を追及するため、「自由」を保証するどころか、それを分裂させてしまい、すぐれた芸術を生み出すことはできない。自由放任やアナーキーな状態では、さまざまな思惑が介入してくるために、芸術は「自由」に表現され得ない。芸術の「自由」はいつも束縛されかねない危うい状況にある。芸術の「自由」には保護が不可欠なのだ。魯山人には経済主導は嫌悪すべきことでしかないのである。

 これまで論じてきたことから、魯山人は、ヘーゲルと同じように、起源ではなく、結果を重視していることは明らかだろう。重要なのは起源がどうかではなく、ある結果に到達するように発展させていくことである。起源は結果から逆に発見されるものなのだ。日本料理を料理の完成と見るならば、日本料理だけでなく、中華料理やフランス料理などを含めた料理全般を相手にしなければならなくなり、さらには、料理は歴史的なものであるから、共時的だけでなく、通時的なレヴェルの視野を要求される。魯山人が今日においても例外的に考慮に入れなけれならない料理の考察を残しているのはこの視野の広さによるのだ。料理に関して考えたもので、日本料理において、これだけ広い視野を持ったものは、その視野を保持するためには全国の日本料理店をめぐりその序列をつけられるとか、日本料理のみに詳しい知識を持てばいいということではなくなる以上、稀有であろう。

 食器、陶芸を料理のためにつくり始めた魯山人によれば、中国の芸術や料理は「形態はよいが内容において欠けている」。また西洋の芸術や料理は「形や柄の表面美に囚われていて、ものの真髄を掴む点においては」、日本のものに「敵し得ない」。中国や西洋の芸術は日本の芸術の前段階なのである。他の世界の料理は日本料理に向ける目的論上の要素として位置づけられるのだ。と言うのも、日本人は中国や西洋の芸術や料理をわがものにできるが、中国人や西洋人には日本の芸術や料理をわがものにできないからである。一九六〇年代の日本のフランス料理のコックは、日本国内では手に入らない素材の代わりに、すでにある材料で――エシャロットの代用としてタマネギ、ズッキーニの代用としてキュウリ――、なんとか本場の味に近づけようと工夫・努力していた。ポール・ボギューズが、一九八〇年代に、「ヌーベル・キュイジーヌ」を提唱したとき、そのような日本の素材と盛りつけ技術がフランスのシェフたちに影響を与えることになった。「真の独創的な人とは、何か新しいものを初めて観察することではなく、古いもの、昔から知られていたもの、あるいは誰の眼に触れられていたが見逃されていたものを、新しいものとして観察することができる人である」(ニーチェ)。こうした『味覚の美と芸術の美』に見られる主張はレイシズムであるかのように見受けられるであろう。だが、彼は、あくまでも、日本人が優れているのは日本の自然がよいからだと告げているのであって、日本人がア・プリオリに優秀だと叫んでいるのではないことに注意をしなければならない。『食器は料理のきもの』(一九三五)によると、中華料理が優れていたのは、最も優れた食器をつくっていた明代であり、今日においては没落していると主張する。この場合、料理の起源は自然科学的なものではないが、現実の事柄の発展として見出されるものではない。起源は目的によって考え出されるものであって、それは経験的な事実ではなく、目的論的な権利としての転倒である。起源はたんなる契機にすぎない。

 言うまでもなく、「自然」に恵まれているから日本は優れているという魯山人の主張には、事実から見ると、無理がある。確かに、いくつかの海産物に関しては日本のものは、カリフォルニア近海でとれるものと比べると、繊細な味をしている。しかし、なすやトマトなどのラテン・アメリカ原産の野菜は、日本で栽培する際、実は、注意しなければならないのだが、そうした配慮はほとんと無視されているのである。それらの野菜は、本来、ラテン・アメリカの乾燥した高地で栽培されていた。日本で栽培する際には、土の性質や湿気を調整して、ラテン・アメリカのそれに近くなるようにしなければ真にうまいものにはならない。アンデスの気候にあわせて栽培したトマトはミカンよりも甘い味をしている。また、朝鮮半島の代表的な料理であるKIMCHIは、もともとは秀吉の朝鮮出兵の撤退の際に残していった唐辛子を料理に用いることから生まれたのである。日本では唐辛子は薬味としてわずかに用いられるだけだったのに、朝鮮半島では最も生活に根づいた料理を生み出すことになったのは日本が、朝鮮半島と比較すると、唐辛子栽培に適していなかったからである。朝鮮半島で栽培された唐辛子は、ただ辛いだけの日本のものよりも、はるかにまろやかなのだ。韓国の人々は、年間に、日本人の約十倍の二百グラムを消費するが、日本の唐辛子の味では、とてもそこまで食べられないだろう。このように日本が料理の面で「自然」に恵まれているとは、事実としては、必ずしも言えないのである。食べ物の話はいつまでも続けていたい。

 魯山人の日本料理へ至る料理の完成は、先に述べたように、円環構造をとっている。魯山人は西洋料理と中華料理、日本料理をそれぞれ異質なものとして切り離して考えてはいない。西洋料理や中華料理は日本料理と対立しているわけではないのである。彼は西洋料理や中華料理を、日本料理に対して、低次の自律状態として把らえている。魯山人の言う日本料理に明確な定義があるわけではないのだ。『味覚馬鹿』(一九五三)によると、「日本料理と言っても、一概にこれが日本料理だと簡単に言い切れるものではない。言い切った後から、とやかく問題が起こり、水掛論が長びき、焦点がぼけてしまうのが常だからだ。昔もそうだが、近頃では尚更である」。それゆえ、「現在、純日本料理はないであろう」。日本料理とはフィクションなのだ。今日、われわれにとって最も身近な料理はいわゆる和食だけではない。洋食やラーメン、カレーライスなどもわれわれの食生活を構成している。むしろ、われわれの食生活の中心にあるのは明治以降に生まれた料理がほとんどである。和食すらも他の料理が混入している状態なのだ。洋食は明治以降に入ってきた西洋料理をアレンジしたものである。

 洋食は、近代日本において、近代化の象徴である。特に、国民食とも言われるカレーライスの事例は非常に興味深い。カレーライスはインドから直接ではなく、イギリスを経由して日本に伝わったため、ハイカラな西洋料理の一種と思われていた。スリランカのカレーに欠かせないモルジブ・フィッシュは鰹節の原型ではないかという説もあるので、日本人がインド文化圏の料理を意識はしていなくとも受け入れていなかったというわけではないにしろ、一般的に知識は皆無に等しかった。明治以前は、東南アジアを経由したものを除いて、インド文化の多くは中国によって媒介されて日本に伝わっていた。明治五年に初めてカレーの調理法が紹介されてから、洋食屋が次々にオープンしてメニューにカレーが加えられるようになった。関東大震災後になると、都市化が進み、モダニズムの流れとともに、安くてうまいカレーは大衆の間で人気を高めた。軍隊が食事にカレーを採用したこともカレーを全国的に広める要因になった。ただし当時のカレー粉はすべて輸入品だった。戦後になると、S&Bの創業者である山崎峯次郎が国産のカレー粉を開発するのに成功、さらに固形のカレーの素やレトルトが登場し、ますます身近な料理になっていった。学校給食にカレーライスもしくはカレーうどんがとりいれられ、完全にカレーは日本の食卓には欠かすことのできない料理になった。ちなみにわれわれが、子供のころ、毎週金曜日の夕食はカレーだった。CMの中の「ビックリ」したインド人を代表にインドの方は必ずと言っていいほどターバンを巻いていたが、そうするのはシーク教徒だけで、インド人全般ではないとわれわれが知ったのはかなり後になってのことである。とは言うものの、インドの方で名古屋弁を日本語の標準と思いこんだ人とはまだ出会ったことがないから、われわれはよっぽど馬鹿だったのかもしれない。「めっちゃめっちゃうみゃーでいかんわ」。インドの国技カバティが、もし名古屋で生まれていたら、「だがね」という名称になっていたに違いない。カレーの語源はタミール語でソースを意味する「カリ」、カンナダ語の「カリル」だとされ、それをポルトガル人が使ったとされている。もともと「インド人」という概念が存在しないように、インド文化圏にカレー粉に相当する総称は存在しない。インド文化圏ではお仕着せのカレー粉など使わず、料理人が自分でスパイスを調合する。身の回りの材料をさまざまなスパイスでつくる日常的な料理を呼ぶ総称などあろうはずもない。日本ではほとんどの料理に醤油や味噌を使うが、それを何と呼ぶと尋ねられても答えに窮するだろう。四川料理を中心に中国料理では医食同源という発想がある。しかし、漢方薬はインドではスパイスのことにすぎない。薬という意識すらなく使われている。もしインド料理に薬膳という考えをあてはめたら、それこそすべてが薬膳料理にあたってしまう。インドだけでなく、イスラム圏の伝統治療である薬草療法で用いる植物の種類は漢方薬を超える。健康好きで、漢方をありがたがる日本人がカレーライスを薬膳料理と見ていないのがまったく不思議だ。もっとも、今では、インド人もイギリスから逆輸入した形でスパイスを混ぜあわせた粉を「カリ」、あるいはペルシア語から借用した「マサラ」と呼んだりしている。インド映画を「マサラ・ムービー」と呼んだりするが、これはペルシア語に由来する「ヒンドゥー」とも言われるインドの現状をよく表わしている。ヒンドウー語は、デーヴナーグリー文字を使って、表わされる(これはかつてのプロ野球の帽子のマークのような文字で、特に、初の三百勝投手ヴィクトル・スタルヒン、パ・リーグ最初のノーヒッター林義一、「突貫小僧」こと坂本文次郎などで知られる大映スターズのマークはそれっぽい。デーヴナーグリー文字には特定の子音と直後の子音が一体になった結合文字があるので、なおさら、そう見える)。インド文化はシンクレティズムが激しい。西アジアやアフガン、ペルシア、アラブ、トルコに由来するものがインド文化にはかなり見受けられる。シタール、クタール・スタイル、タンドール・チキン、マトン・カレー数えあげればきりがない。中でも、音楽は、古典から大衆音楽に至るまで、最もイスラームの影響が強い。ただ、シンギスカンが普及している北東北や北海道でもマトン・カレーを食べるが、別にムスリムが多いわけではない。現在でもインドは、インドネシア、パキスタン、バングラデッシュに次ぐ世界第四位の人口のムスリムを抱えている。約十億人の人々が住むインド亜大陸はヨーロッパ・ロシアを除いたヨーロッパ全域より広く、さらに、民族、言語、宗教、文化の面では、ヨーロッパ以上に多様かつ複雑である。インド共和国内だけでも、一千万人以上の母語人口を持つ公用語がヒンドゥー語――約二億人――や英語を含めて十六言語、州の数は二十二あるが、それらは言語によってわけられている言語州であり、全体では八百以上の言語が話されていると見られている。宗教も、イスラーム教、シーク教、キリスト教、仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教など数えあげればきりがない。ヒンドウー教を民族宗教と見なす認識には、仏教を世界宗教と定義してしまうことと同様、疑問がある。南インドのヒンドゥー教徒が牛肉を食べるように、ヒンドゥー教自体中心のない諸宗教の連合体である。ムガール朝のインドに、経済力においては、当時のヨーロッパ諸国すべてをあわせても及ばなかった。一般的な労働者の待遇はインドのほうがヨーロッパよりもずっとよかった。ムガールはモンゴルのことである。ムガールの始祖バーブルはモンゴル系でありながらムスリムのティムールの血統をひき、中央アジア支配に失敗した後、インドに入り、帝国を建国したため、この帝国がチンギス・カンの偉大なモンゴルの後裔だという意識があった。第五代シャー・ジャハーンの治世の時代に帝国は最も繁栄するのだが、彼はタージ・マハル建設(一六三二─五三)によってその帝国をあっという間に弱体化させてしまった。しかも、これは最高権力者でもなく、聖者でもない一妃ムムターズ・マハルをまつった霊廟にすぎなかった。こんなことは歴史上ほかにない。没落するものにこそ愛はふさわしい。タージ・マハルは、そのため、神に祝福された美しさを持っている。森枝卓士の『カレーライスと日本人』によると、カレー粉はイギリスで生まれた。インドでカレー料理を食べているという事実は、イギリス人の間にも、一五九八年にオランダのリンスホーテンの記した『東方案内記』、一六三一年にイギリスのノックスが書いた『セイロン史』を通じて、知られていた。初代ベンガル総督が就任した一七七四年刊行された『明解簡易料理法』の中に、ターメリックとショウガに胡椒だけを使ったカレーのレシピが載っている。これがイギリス最古のカレーに関するレシピだとされている。ところが、さまざまなスパイスを調合して料理に使うのは、スパイスを使いなれていないイギリス人には難しかった。そこで、イギリス人の好みにあったスパイスを調合してしまえば、手軽にカレー料理が食べられると考えて、カレー粉を編み出した。森枝はその際のヒントはガラム・マサラと推測している。確かに、「ビーフィター」とも呼ばれるイギリス人に牛を神聖視するインド人の料理がそもそもあうのかは疑問だ。何しろ、インドでハンバーガーを注文するとビーフではなく、マトンが使われていた。しかし、森枝の一連の議論には不十分な認識がある。彼は国民国家と産業革命が「カレー粉」の登場の時代背景にあることを見逃している。クロス・アンド・ブラックウェル−−C&B−−がカレー粉の商魂化を試みているのは一八一〇年ごろであるが、これはちょうどナポレオン戦争の時期にあたる。胡椒を求めて大航海時代が始まったとしても、ヨーロッパにも、すでに数多くのスパイスが伝わっており、インド人ほどではないにしろ、ヨーロッパ人もある程度スパイスを調合して使っていたから、イギリス人は、インド支配以前、必ずしも規格化された調味料を決して求めていなかった。国民国家による規格化および産業革命による大量生産を経験して、初めて、カレー粉を受け入れた。インドの料理は「カレーライス」からほど遠い。インドには、肉あるいは海鮮、豆と何種類かの野菜を混ぜ合わせた料理はない。肉にしろ、海鮮にしろ、豆にしろ、野菜にしろ、一品の材料だけを使う。そのため、材料と香辛料の組み合わせの幅が広く、非常にバライティー豊かである。インドの料理は「カレーライス」という一つのカテゴリーに収まりつかない。「インド人」が「インドとは何か」という問いのために強引につくりだされた答えにすぎないように、国民国家が人々を規格化して従来存在してなかった「国民」を登場させた。その国民が産業革命によって規格化した商品を(今日と比較して規模が小さかったとしても)大量に生産・消費した。日本でもカレーは軍隊と学校という国民を生産する機関を通じて普及しているし、都市化=産業化が食卓定着の大きな要因になっている。そして、イギリス人はインドのイスラーム文化よりも古典ヒンドゥー文化を尊重したが、日本人も同じだ。日本人がいつも東洋を西洋の目を通じて見るように、イギリス帝国主義支配の象徴たったインドを顧みず、カレー料理をイギリスで発案されたカレー粉でつくるものと信じこんでしまった。カレー粉が、むしろ、イギリスよりも国民国家がうまく機能した日本で普及したのは当然だった。従って、ビートルズのインド発見は音楽における二重の意味での一つの精神分析だったと考えなければならない。少々脱線してしまったが、インド文化圏の多様性を延べるには、こうした記述が不可避であることを強調しておかねばなるまい。

 また、中華料理ではさほど中心的なものではないラーメンも、マカロニ・ウェスタン的に、中国とはまったく別に日本で独自に発達した。鳴戸はラーメンが日本ではなく、あくまでも中国のものであるというプロテストの意識から、ある中国人の料理人が、加えたものである。つまり、日本料理は中華料理や西洋料理によって媒介されているのだ。彼は東洋と西洋といった空間的な分割を肯定しない。芸術の歴史は、相異なる文化圏が交流して、形成され、階層的に発展する。例えば、西洋料理を変えたのは新大陸の発見である。それまでヨーロッパには野菜は玉ねぎやキャベツくらいしかなかった。イタリアやギリシアなど海に近いところでは海産物を料理に使っていたが、内陸では、野菜の種類が少なかったため、肉料理が中心であった。けれども、肉の保存方法がまだ確立されていなかったので、胡椒が不可欠だった。胡椒は、香辛料の宝庫インドからアラビア商人を経て、ヨーロッパへもたらされていた。胡椒は銀と同じ価値で取り引きされ、当時の東方貿易は胡椒貿易を意味していたのである。しかし、大航海時代に、胡椒を獲得する新たなルート、海洋ルートが発見され、胡椒の価値は次第に低くなっていった。ちなみに、胡椒は、肉食ではなかった戦国時代の日本では、まったく別に利用されていた。胡椒は、梅干しなどと同様、戦の際の携帯食料として用いられていたのである。十七世紀以降、ヨーロッパに、新大陸からなすやトマトなどさまざまな野菜が入ってくるようになり、肉料理一辺倒から野菜料理など料理の幅が広くなったのだ。また、今でこそ世界三大料理の一つと呼ばれているフランス料理だが、もともとフランス料理は土着のものから発達したわけではない。イタリアの有力者の娘が、フランス王家に嫁入りした際、イタリアから料理人を連れていった。この料理人たちがフランスの農産物にイタリア料理の技法を用いることによって、フランス料理は確立されたのだ。フランス料理はイタリア料理の一変種なのである。このようにそれぞれの料理はさまざまな文化圏の交流によって形成されてきたわけだから、魯山人は日本料理が料理の世界史において最後の一点であるとしても、異質な、特殊な、例外的な料理であるという主張を認めないのである。魯山人の芸術概念は物語や年代期との訣別をしていないワーグナー的な全体芸術とは異なっている。魯山人は料理だけではなく、陶芸や書などにおいても、階層を設定し、それを認識の発展と同時に事柄の発展でもあるよう把握している。料理と陶芸、書なども一つの目的に向かった弁証法的な発展にある。魯山人の料理における統合化・中心化は目的によって設定され、そこから全体を合理的なハイアラーキカルなパースペクティヴを構成するのだ。このような自己意識の超越性に基づいた視点によって、魯山人は新たな料理を見出したと同時に、新たな陶芸をも見出したのである。

 今日、世界にはさまざまな料理が存在しているが、最もタフなものは中華料理であろう。日本では西洋料理と言えば、フランス料理が権威を持っているけれども、イタリア人は、外国の料理にほとんど関心を示さない。Non ci sono ristoranti francesi in Italia.ところが、そんなイタリアでも、中華料理だけは割に知られている。中華料理は全世界で通用する。宋代の料理が今の日本料理の特徴と見なされている傾向を帯びていたように、現在のわれわれがイメージしている中華料理は、張競の『中華料理の文化史』によると、たかだか百年から三百年ほど前に形成・蓄積されたものにすぎない。現代中華料理の最高級食材であるフカヒレは百年前にようやく宮廷に入ったばかりなのである。そして、明末に伝来した唐辛子が正式の宴会料理に使われ始めるのも、四川でも十九世紀、他の地域では二十世紀になってからである。一九二〇年代に中国を訪れた後藤朝太郎は、『支那料理通』(一九二九)の中で、「四川料理の如きに至っては野菜料理の特色を表わして、野菜が主となり、日本人の口に大層合っている」と記している。激辛というイメージが強い四川料理も決して辛いの料理ではなかった。家庭料理では唐辛子がよく使われるためか、毛沢東を代表に共産党の革命家は唐辛子を好んだが、国民党の政治家はあまり辛い味が好きではなかったようである。魯山人が賞賛している明の料理は、確かに、現代中華料理の原形の基礎とはなっているものの、違っていた。南京から北京へと遷都した明朝は、十四世紀に、長江下流地域の食習慣を北方に持ちこんだ。中華料理は、食材にしろ、調味料にしろ、調理法にしろ、ありとあらゆる物事を経験している。中華料理がタフなのはさまざまな世界交通の中で形成されているからである。中華料理は世界交通がいかなるものであるかを理解する最良のアルシーヴだ。「中華」は絶え間なく移動するある全体性を指している。決して一つの中心を意味していない。「それらは日本の文化人にとって、滅亡がまだまだごく部分的なものであったからにすぎない。彼らは滅亡に対してはいまだ処女であった。処女でないにしても、家庭内に於ての性交だけの経験に守られていたのである。これにひきくらべ中国は、滅亡に対して、はるかに全的経験が深かったようである。中国は数回の離縁、数回の女千淫によって、複雑な成熟した情欲を育くまれた女体のように見える。彼らの文化が、いかに多くの滅亡が生みだすもの、被滅亡者が考案するもの、いわゆる中国的慧知をゆたかにたくわえているが、それは日本人に理解できないほどであろう」(武田泰淳『滅亡について』)。第一、中国人自身は「中華料理」とは言わず、「広東料理(中国語では、粤菜)」とか、「四川料理(川菜)」とか、「山東料理(魯菜)」という呼び方をする。豆腐は葬式の儀礼食であるため招待客に出してはいけないという長江下流域から、逆に、客をもてなす料理として豆腐を出す地方まである。中国人は、日本人のように、型に拘らない。中華料理は雑種料理である。日本でさえ、ここ五十年の間でも、電気冷蔵庫の発達によって、保存を目的とした食材の塩味や酸味は薄くなった。中華料理に「四千年の歴史」という形容がされるが、長さを競うことが歴史認識ではない通り、この歴史は線的ではない。ある時代には、あまり油を使わなかったり、海産物が中心だったり、生で魚や肉を食べたり、犬肉がタブーだったり、スープがメーンだったり、豚肉が蔑視されていたりといった具合で、地理的だけでなく、中華料理の歴史的変化は、日本料理とは比較にならないほど、ダイナミックである。食口左飯未口牙。

 こうした魯山人の日本料理の完成の主張は突然出現したのではなく、実は、歴史的に見ると、近代の克服を目的としていたあの座談会「近代の超克」とパラレルに行われているのである。

 「近代の超克」に関しては竹内好や橋川文三、廣松渉などが優れた論考を残しているが、それらを十分に踏まえた上で、柄谷行人は、『近代の超克について』において、「近代の超克」を次のように説明している。

 

 「近代の超克」とは、日米戦争が勃発した直後の昭和十七年、雑誌「文學界」が特集したシンポジウムによって一世を風靡した主題である。しかし、この座談会だけを取り上げるのは的はずれである。また、それを昭和十七年という特定の時期に限定すべきでもない。この座談会は「文學会」グループ、「日本浪漫派」、および「京都学派」の三派で構成されているのだが、後の二派の中心人物保田與重郎と西田幾太郎は不在であり、「文學会」グループの小林秀雄はほとんどしゃべっていない。ところが、「近代の超克」と呼ばれるべき思考の核心は、この三人によって、ほぼ昭和十年前後にまとまったかたちですでに出ていたし、それを検討することなしに、この座談会だけを論じるのは不毛にきまっているのである。「近代の超克」は、明治以来の日本の代表的知性がたどりついた一極点なのだ。

 

 柄谷行人は昭和二十年からを戦後として論ずることを斥け、「昭和十年前後」まで遡って考察しており、「近代の超克」論はその試みの一環である。「近代の超克」はたんなるナショナリズムの高揚や大東亜共栄圏の正当化として表われたのではない。また、彼らは日米戦争に対して『おそ松くん』の「おふらんす」帰りで、「ミー」と自分自身を呼ぶイヤミのごとく「シェーッ」と叫んでいるわけではないのだ。それは政治的な問題を論じてはいるが、出席者たちのほとんどが、日米戦争が始まっているにもかかわらず、アメリカに関してはほとんど言及していないように、政治主導に対する文学・哲学の抵抗である。すなわち「近代の超克」とは経済的なものに基づいた近代を政治的なものによってではなく、文学的・哲学的に超克する企てであった。ヘーゲルの認識はプロシア国家では他の諸国よりも、歴史的に見て、最も「自由」が達成されているという「自由の超克」であったけれども、「近代の超克」は「自由」の問題を文学的・哲学的領域として扱っているにすぎず、日本において、他の諸国と比べて、最も近代の超克が実現しているという発想である。

 これまで論じてきたことから明らかなように、魯山人とヘーゲルの思想の間には驚くほどの類似性が見出せるけれども、魯山人がヘーゲルの哲学を知っていたかとか、その著作を読んでいたかということは問題ではない。また、魯山人は京都生まれであるし、京都を活動の拠点にしていたことはあったとしても、「近代の超克」を唱えた三派のメンバーと直接的な交流があったかどうかとか、彼らの論文やエッセーを読んでいたかどうかとかといったことは、必ずしも、重要なことではないのだ。ただ魯山人の日本料理に対する賞賛の主な文章が発表され始めたのは、マルクス主義運動が弾圧された昭和五年の後であり、先に述べたように、この「昭和十年前後」からである。そして、魯山人は、一九四〇年、すなわち昭和十五年以降、敗戦後しばらくまで−−漆器製作に専念していた−−沈黙し、戦後の昭和二十年代から三十年代にかけて発表された文章は、料理に関するエッセーに限らず、戦前のそれと比較すると、精彩を欠き、視野か狭くなり、凡庸なものになっている。魯山人の料理に関する視野の広さもこうした歴史的・社会的状況が生み出したものなのである。魯山人自身が主張しているように、彼個人の力以上に、「時代」が魯山人の芸術理論の出現を可能たらしめた。魯山人がそうした「時代」の中にいて料理を考えるとき、世界史的視野を持たざるを得なかったのだ。つまり、魯山人が料理を哲学にし、さまざまな分野で新たな地平線を切り開いたのは、この「時代」に結びついた生を保持し、「時代」をたぐりよせるように思考していたからなのである。

 その上で、魯山人は、『味覚の美と芸術の美』において、日本を、芸術に限らず、すべての終着点であると次のように賛美する。

 

 ここにおいて、私はなぜこう日本人のみが一人世界に冠絶した素質を有するかを考えざるを得なくなった。これは、なにもお国自慢でもなんでもない。あらゆる方面における作品と行為を見れば見るほど、私のみてなく、誰だってその感を深くすることであろう。

 なるほど、科学の進歩や工業の発達においては彼らが秀れていた。しかし、それは日本が鎖国という特別の事情が存在していたからであって、一度彼らと文通するや、たちまちにして世界の知識を学びとり、科学であれ、産業であれ、すべての文化において彼らを凌駕して一歩も引けをとらない。それはなぜだろうか。

 私は地球上日本が、優れた自然天恵を享けて成り立っているからだと思う。そして、このような地理的に秀れた環境のもとに、日本人が育てられ、民族としての優秀な素質を培われたにほかならぬと考えざるを得ないのである。日本の自然が、日本の気候風土が世界に冠絶していることは、今さら私が改めて言うまでもないと思うが、日本人の秀れた素質は、偏えに、この自然の天恵何万年を経た結果に帰すべきであろう。

 山紫水明、あまつさえ四囲に青海をめぐらして、機構の調節的温和なること、地味の肥沃なること、いずれの点より見るも、これが生物によっては優れた自然天恵の日本であることが分る。だから、さかなひとつに見ても優れた魚族であり、樹木一本較べてみても、秀れた良質と言えよう。

 

 魯山人の主張には日本的なもの(テーゼ)と外来的なもの(アンチテーゼ)から新たな日本的なもの(ジンテーゼ)が生まれるという弁証法が成立している。ヘーゲルの三組論理はこう説明されることが多いが、ヘーゲル自身はテーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼという用語を一度も使っていない。魯山人にとって、「漢意」を退け、「やまとごころ」を守ろうとすることは誤謬であり、鎖国は究極的な失策なのである。そもそも純粋な「やまとごころ」など、「現在、純日本料理はないであろう」ように、存在しない。このような魯山人の日本賛美は、日本精神史において、稀なケースである。「外来的な理論や宗教に圧倒された後に、日本人が自らの根拠や原理を見いだそうとすると、結局無原理=無根拠そのものを原理として見いだすことになる。それは、決まって『情』であり『美』である。また、それは対外的な関係に背を向けた『鎖国的』な状態において生じる」(柄谷行人『近代日本の批評−−昭和前期U』)。なるほど魯山人は「美」に向かった。けれども、彼は「無原理=無根拠そのものを原理として見いだすこと」はなかった。彼は合理的なものだけを「美」として認めたのである。魯山人にとって、「対外的な関係に背を向けた」自己充足的なナショナリズムは、むしろ、日本の特性を殺ぐことになるのであって、自殺を煽動するような思考なのだ。日本にとって、アイデンティティというものは、「現在、純日本料理はないであろう」以上、明確にあるわけでもないし、滅びるべきものでもないし、防衛すべき対象でもない。それを狂信的に過去や伝統に求めることは不毛なのである。アイデンティティなど過去にしか栄光がなく、未来には没落しかない老衰したものたちの年金にすぎない。彼の日本賛美はたんなる排外的な日本中心主義的ナショナリズムではないし、もしくは、それは、一見したところでは、岡倉天心の『茶の本』に見られる主張に近いかもしれないが、天心のロマンティック・アイロニーとは異なっている。また、はかなく哀れな日本を賛美する日本浪漫派は、魯山人から見れば、反動にすぎない。日本はすべてを消化する丈夫な消化器官に恵まれているのである。世界交通はすべて日本に向かう。日本がすぐれているのは、よい「自然」に恵まれているため、さまざまなものが入りこんでくることであり、日本においてすべての芸術が完成し、真の「自由」が達成する。完成するとは日本化することである。そして、日本化とはもうこれ以上応用できないということにほかならないのだ。つまり、日本は世界史における芸術や「自由」の「画龍天晴」なのであって、日本料理は終わりの料理であり、日本芸術は終わりの芸術なのである。

 このような魯山人の主張は、ド・ゴール政権の外交顧問で、ECの青写真やその関税制度を立案したとされるアレキサンドル・コジューヴの一九五九年の指摘を、先取りしている。さあ、お待ちかねのコジューヴの登場だ。

 「最近開始された日本と西洋世界との相互交流が最終的に行き着く先は、(ロシア人をも含む)西洋人の『日本化』である」と書いたコジューヴは、その『ヘーゲル読解入門』第二版脚注において、次のように述べている。

 

 「ポスト歴史的な」日本の文明は、「アメリカ的生産様式」とは正反対の道を進んだ。おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ」的あるいは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。だが、そこでは純粋な形式のスノビズムが、「自然的」あるいは動物的な所与を否定する規律を創り出していた。これは、その効力において、日本や他の国々において、「歴史的」な行動から生まれた規律は、すなわち戦争と革命の闘争や強制労働から生まれた規律をはるかに凌駕していた。なるほど、能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビズムの頂点(これに匹敵するものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗な社会的経済的不平等にもかかわらず、日本人は例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべてうしなった価値に基づき、現に生きている。

 

 この「日本化する」という発想を日本人自身も八〇年代に抱いていた事実は、IBM HomePage Builder V3.0 for Windowsで編集されている「トロン協会ホームページ(http://www.tron.ab.psiweb.com/)」における「WHAT’Sトロン」の記事を見れば、明らかだろう。

 

トロンプロジェクトとは

 トロン(TRON: The Real-time Operating-system Nucleus)とは東京大学・坂村 健博士によって提唱された電脳強化環境(Computer Augmented Environment)のためのコンピュータアーキテクチャです。その提案に賛同した民間企業によって、新しい概念にもとづくコンピュータ体系を構築するために産学共同でトロンプロジェクトが発足しました。

 トロンプロジェクトを推進するための中核機関として、社団法人トロン協会が設立され、ITRON(機器組み込み制御用リアルタイムマルチタスクOS仕様)BTRON(パーソナルコンピュータ、ワークステーション用OS仕様を中心としたアーキテクチャ)CTRON(通信情報処理向けOSインターフェース仕様)、トロン仕様チップ(VLSIマイクロプロセッサアーキテクチャ)の各サブプロジェクトを推進しています。さらにこれらのサブプロジェクトの成果を集大成して、「どこでもコンピュータ」環境を実現するというのがトロンプロジェクトの長期的な目標です。

 「どこでもコンピュータ」環境とは、人間の身の回りのすべての道具、家具、設備などにコンピュータが入り、それらが互いネットワーク接続され、協調して最適な生活環境を演出するというコンセプトで、トロンが世界に先駆けて提唱したものです。このコンセプトは今やUbiquitus Computing,Computer Augmented Environment, Intelligent Environment等の名前で、コンピュータ研究の最先端分野として、世界中で研究されています。

 「どこでもコンピュータ」環境の時代は確実にやってきます。そのような環境の中で、大量のコンピュータ組み込みの機器間を開かれたネットワークでつなぎ、全体が有機的に協調動作できるようにしていき、最終的には超機能分散システムを構築するための技術を開発するのが、トロンの最終段階のMTRONサブプロジェクトです。

 

90年代から21世紀を目指して

 トロンは1990年代から21世紀にかけての技術水準をターゲットとした理想的なコンピュータアーキテクチャです。理想の実現にあたっては、VLSIマイクロプロセッサの存在、優れたリアルタイム性、やさしいヒューマンインタフェース、リアルタイムネットワークアーキテクチャを前提としています。

 そして、家庭用電気製品、パソコン、工業用大型ロボット、大型コンピュータ、局用交換機などのあらゆる応用分野のアーキテクチャを、一貫した設計思想にもとづいて新たにデザインすることを目指しています。

プロジェクトの成果である仕様書はトロン憲章の精神にのっとり、全世界に公開され、誰でも仕様書に準拠した製品化ができます。

 

弱い標準化を

 トロンではインタフェースは規定しますが、特定のハードウェアやソフトウェアを前提とした強い標準化は行いません。トロン仕様とは、OSそのものを規定するものではありません。インタフェースを規定し、弱い標準化を行っています。その結果、プログラム互換性、データ互換性、開発コストの低減、周辺機器の共通化、そのほかシステム作成コストの低減、教育の一本化、教育効果の向上などのさまざまなメリットが期待できます。

 具体的には、マイクロプロセッサの命令セット、オペレーティングシステム核、オペレーティングシステム外核、アプリケーションプログラムの階層に分けて、そのインタフェースと機能を規定することです。これによって複数の企業が個別にインプリメントすることが可能になり、ある階層から下のインプリメンテーションが変わっても、上位の階層はそのまま使用でき、しかも一貫性がとれているので、標準化されると同時に、自由競争を維持しながら多くの企業が参加できます。また、機能は規定していますが性能は規定していないので、各企業の製品間の互換性と、性能の多様性が両立されます。

未来に対しての互換性

 トロンでは過去との互換性による制約を排除し、未来に対しての互換性を重視しています。現在のマイクロプロセッサのアーキテクチャは、過去の互換性を引きずっていて、例えれば、増築を繰り返して住みにくくなった家のようなものです。そこでトロンでは、過去の互換性を断ち切り、未来のVLSI技術を想定し、例えばMPUについていえば、まったく新しく32ビットから設計し、さらに64ビットへの拡張性を考慮しています。

 また、アプリケーション間のデータ交換を保証するために、TAD(トロン・アプリケーション・データバス)というデータ形式規格を定めています。TADを採用すれば、既存のOSの世界とも十分に共存共栄が図れます。

自動車のように使える

 トロンでは、誰もが簡単にコンピュータを使うことができるということを重視しています。つまり、コンピュータを自動車のようにしたいと考えているのです。自動車の運転はメーカや車種を選びません。人間と機械との間で基本的な約束ごとの概念を確立することで、操作方法が統一されているわけです。

 特にパーソナルコンピュータの利用では、使用する機種やアプリケーションは随時変わりうるので、機種やアプリケーションを越えてのヒューマン・マシン・インタフェースの統一が必要なのです。また、誰もが、といった場合、コンピュータの専門家でない人々といった意味のほかにも、体に障害のある人から高齢者や子供などあらゆる人々を対象にして、それを積極的にサポートしていこうという基本理念も、トロンアーキテクチャの大きな特徴のひとつとなっています。

 

 ものは言いようという見事な見本となっている。TRONは、確かに、アーキテクチュアーは優れていたものの、当時発表されたばかりのマッキントッシュよりも必ずしも使いやすくはなかった。また、トロン・プロジェクトは、タッチパネルと人間工学に基づいたトロン・キーボードの採用を掲げており、一九七〇年代初期にアラン・ケイの提唱した「ダイナブック構想」、すなわちノート型パソコンが主流化するであろうという構想を必ずしも見据えていなかった。「どこでもコンピュータ」がユビキタスを踏まえている通り、トロンは先見性という点では決して劣るものではない。そのため、パソコン用ではなく、携帯電話などTRONは小型化という方向性で生き残っていくほかなかった。事実、その方向における優秀性は世界的に認められている。TRONOSとして普及しなかったのは、よく日本の関係者が口にするアメリカとの政治的駆け引きに負けたからだけではなく、このように、ウォークマンを開発できても、蓄音機を発明できない近代日本の功罪を体現していたからである。八〇年代は、日本が世界経済において輝いた最初にして最後の時期だったのである。

 コジューヴは、ジャン・イポリットも同様だが、伝統的なヘーゲルの解釈にしたがい、オーソドックスな作品読解を展開しているから、ラジカルな読みを好むものには、不満が残るかもしれない。ヘーゲル哲学の可能性がコジューヴやイポリットによってすべてカバーできるわけではないのだ。フォイエルバッハに傾倒したアレクサンドル・イワーノヴィチ・ゲルツェンがヘーゲルの学説を「革命の代数学」と指摘したように、ヘーゲルの記号化した代数方程式の応用は、現在でも、魅力的な作業であることは間違いない。

 フランス革命のころ、ラグランジュは、『数学方程式の解法』において、方程式を次のようにと定義している。

 

 代数学とは、既知の諸量、あるいは既知と仮定されたる諸量の関数として未知量を決定する学問である。またそれは、方程式の一般的解法を見出す学問である。一般的解法とは、同次のあらゆる方程式に対して、その根のすべてを表わすような該代数方程式の係数の関係を見出すことである。

 

 しかしながら、知的好奇心はあまりそそられないだろうけれども、オーソドックスな読みが持つ並々ならぬ影響力は無視することができないのである。コジューヴのヘーゲル哲学の紹介は、デカルト主義や実証主義、新カント派、ベルクソン主義といったフランス知識人の対立を統合して、克服する原理として若者に歓迎されたのだ。ヘーゲル哲学は、多くの場合、混乱・対立を止揚するヒントとして受容される。すでにナツメロな読解を展開していると感じている人は多いだろうが、伝統的理解を尊重しているのは、その可能性以上に、影響力のほうを分析の中心にしているからなのである。まだまだお約束は続くので、楽しんで欲しい。「前世紀の偉大な哲学理念−−マルクスとニーチェの哲学、現象学、ドイツ実存主義、精神分析−−はすべて、ヘーゲルに端を発している。ヘーゲルに起源することを忘れたがる恩知らずな諸理論と、起源そのものとの関係を再確立することが、文化的に最も急がれる課題である」(モーリス・メルロ=ポンティ『弁証法の冒険』)。

 魯山人にしろ、コジューヴにしろ、哲学的な反省原理によって、導き出した結論であることに注意を払わなければならない。「スノビズム」を鎖国的状況が生み出す自己充足と解釈することは誤謬である。それはすべてがその一点に終着してしまったために、そこで形式的に繰り返すほかないという認識なのだ。魯山人にとって、歴史はすでに終わっていたのであって、彼の芸術はその認識において発せられていたものである。換言するならば、

魯山人は自分を「終わりの芸術家」として位置づけていたのだ。その彼にとって、「自然」の真の完成を目指す料理は「始まりの芸術」であると同時に「終わりの芸術」であった。だから、魯山人は、戦後になって、谷崎や川端らと同様に、もともとは戦争のために日本語を研究していたが、戦後になって仕事として日本文化を紹介し始めた「オリエンタリスト」のアメリカ人やフランス人によって「ポスト歴史的な」芸術家として発見された。当時、彼らは、ドナルド・キーンの回想によると、日本国内ではもはや時代遅れの存在にすぎなかったのである。その後、魯山人の作品が日本国内で受け入れられるようになったのは、最初は「昭和元録」というスノビズムの時代であり、次には「歴史の終焉」という認識の生じた八十年代という時代なのだ。それは「近代の超克」の終わりの言説が繰り返されたときであった。

 終わりの思考は、ヘーゲルが援用されるのだが、決して、ヘーゲルから始まるわけではない。終末論といった考えはヘーゲル以前にもあった。だが、ヘーゲルの終わりの思想は終末論とは明確な差異がある。後者は真理の問題であるが、前者は何ら到達すべき真理ではないからである。ヘーゲルのカント批判は道徳哲学の領域に関しては鋭いし、またヘーゲルは主観と客観の認識関係をめぐる問題系に、社会や歴史の運動を哲学的考察の課題として加えた意義は否定できないとしても、「自由」をヘーゲルのように定義するならば、いつでもそれが達成されたと語ることもできると同時にまだできていないと話すことも可能であると言ってよい。ヘーゲルの問題設定は、原理的には、決して答えることのできないものなのである。ヘーゲルの哲学は決して排他的ではなく、閉じられてはいない。ヘーゲル哲学からは偏狭な純血主義や人種主義などは出てこないのである。それは、結果において、「自由」なのだ。彼の歴史哲学はいかなる出来事も内在化できるという「自由」を保持している。それゆえ、ヘーゲル哲学は、その結果において、「自由」に修正することが可能なのである。「このようにして彼は自己が一つの円環を経巡り、それを記述し、さらに継続しようとしても堂々巡りしかできない、ということを確証する。すなわち、彼の記述をさらに拡大延長することは不可能であり、できることと言えば、その記述をすでに一度為されたままに再度繰り返すことだけである、ということを確証する」(『ヘーゲル読解入門』)。この説を受けて、フランシス・フクヤマは、『歴史の終わりと最後の人間』によりアメリカの新帝国主義的政策を正当化した。フクヤマは、後に、ヘーゲル論理学を通じて、自分の解釈を世間に知らしめるのが目的だったと弁明している。コジューヴやフクヤマの作品はバブル崩壊以前まで、よく引用・言及された。われわれもそういう作品を、あの時代に、よく読んだ。ヘーゲルは、その意味で、正しい。ヘーゲル哲学はカントの哲学批判のあとに登場してくる。ヘーゲルはその哲学批判を哲学にくみこむことを試みたのであるから、形式的には、ヘーゲル哲学にはすべてがあるというコジューヴの発言には一理ある。合衆国のリチャード・ローティですら「哲学者はどんな道をたどろうと、終点で辛抱強く待っているヘーゲルを発見する運命にある」と言っているのだから。

 今日の世界はブロック化が進み、各地で数多くの紛争・緊張が絶えない。フクヤマは、一九八九年空に発表した『歴史の終わりと最後の人間』において、西側が支配する冷戦後の世界像を描いて、ベストセラーになった。東側体制の崩壊により、自由市場経済と政治的民主主義が勝利を収めた結果、歴史を動かす矛盾を失った世界は均質で、幸福な倦怠感に覆われるだろうと予測した。レジス・ドゥブレは、この見解に対して、一九八九年十一月十七日付の『ル・モンド』に「歴史の復帰」を掲載して反論した。フクヤマの提示するカリカチュアは、ドゥブレによると、イデオロギーや宗教、民族感情の矛盾から解放されていないアジア、中東、バルカン半島、旧ソ連、中南米、アフリカといった世界の多くの地域では無縁であって、むしろ、冷戦構造の枠組みが消失してしまった結果、民族や宗教に根さした局地的な抗争要因がパンドラの箱から飛び出してくる危険性が高く、歴史は終わるどころか、復活する。世界には、まったく正反対の習慣を持つ地域も少なくない。ブルガリアでは、даの際、首を横に振り、неの場合、うなずく。それすら知らないのに、世界を語ろうとする傲慢さが蔓延している。フクヤマの認識も、ヘーゲル哲学から見れば、不十分だが、ドゥブレの予想は、正当であっても、ヘーゲル哲学をあまり理解していないように思われる。ヘーゲルの死後、後継する数多くの哲学が対立・抗争を始めたけれども、それ自体がヘーゲル哲学そのものなのだ。ヘーゲル哲学は、フェミニズムや黒人解放運動、同性愛、第三世界論にも援用されている。フランツ・ファノンは、『地に呪われたる者』の中で、ヘーゲルの弁証法を援用し、黒人は白人の自己確認において、いかなる媒介項ともなりえず、絶対的な他者性にとどまることを示唆した後、根源的な決裂を抱えた黒人は全面的な暴力を通じてしか自己解放することはできないと説いている。ヘーゲル哲学は、そもそも当時ヨーロッパの中で後進地域だったドイツで生まれたという点を忘れてはならない。対立が生まれるかぎり、ヘーゲル哲学は求められ、復活する。「純粋な同一性は死であるという哲学的命題の正しさをアウシュヴィッツは証明している」(テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』)。

 世界史に関する認識は、政治的・経済的統一性が実現したという実感があるとき、生じる。ヘーゲルやフクヤマにありながらも、歴史記述をまったく行わなかったインド人は別にしても、ギリシア人にも、ローマ人にも、ユダヤ人にも、中国人にも、それはなかった。モンゴル帝国によって「世界史」が全体像としてとららえることを可能にした。史上最大の統一帝国、最初にして最後の大帝国をモンゴル人が成し遂げたことを忘れてはならない。西征を指揮し、イランを中心に国を築いたモンゴルのフレグ・ウルスの宰相だったラシード・アッディーンは、ペルシア語で、『蒙古集史』(一三〇一─一一)を記述している。『集史』は二部構成になっており、第一部は、チンギス・ハーンに始まるモンゴル帝国の拡大の歴史がモンゴル自身の立場から詳細に記され、第二部は、人類の歴史をアダムから始まり、イスラーム、ユダヤ、オグズ・トルコ族、中国、インド、ヨーロッパといった世界の主要な地域・民族それぞれの歴史が王統史の形式で進められている。『集史』は、ヘーゲルの世界史のような階層に基づいた発展性は欠けているものの、歴史上最初の世界史の書物である。それまでの歴史書は、『集史』に比べると、地域史にすぎない。ユーラシアの統一はモンゴル人だから可能だった。モンゴル語では、東西南北は左右前後と同じ単語を使って、表現している。これはモンゴルの伝統的な移動式住居「ゲル(гэр )」の入口を南に向けて、建てるからである。「南:前(θмнθ)」、「北:後(хойт)」、「東:左(ЗYYн)」、「西:右(барУУн)」と表わす。モンゴル人にとって世界は自分の家そのものなのだ。こうした世界観は、歴史上、最初で最後の大帝国を建設したモンゴル人にのみ許されている。モンゴル人にしてみれば、ヨーロッパはゲルの右であり、中国は左、インドは前、ロシアは後にすぎない。日本人には、その意味で、世界を語る資格も能力もない。日本人は日本を語ることができても、世界については何のヴィジョンも持てない。「その限りにおいて、哲学することは高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に解明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげで−−思うに、同様な文法機能による支配と指導のおかげで−−始めから一切が哲学体系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいことである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族やムスリムとは異なった風に「世界を」眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうるべきことであろう。特定の文法機能の呪縛は究極のところ生理学的価値判断と種族的条件の呪縛である」(ニーチェ『善悪の彼岸』二〇)。右と西を区別する場合、「手(гар )」を添えて、「右手(барУУн гар)」という言い方をするか、「方角(ЗYг)」をつけて、「西方(барУУн ЗYг)」にする。МснгсЛのЛは、モンゴル語では、ヒンドゥー語と同じく、舌を上の歯茎につけ、舌の両側から息を出して発音するので、注意がいる。先に、われわれはビールについて述べたが、モンゴルには、馬乳でつくった「アイラグ(айраг)」と呼ばれるビールがある。それは乳白色をしていて、酸味があり、言ってみれば、ヨーグルトのビールといったところで、夏、すなわち「ナーダム(надам)」がやってくる季節の大切な栄養補給源になっている。Сайхан ЗУсаж байна УУ? Сайхаан.普通のビールは「黄色いアイラグ(шар айраг)」と呼ぶ。「あなたはまた、私がノマドたちの解答を信じているかとおたずねになりましたね。ええ、私は信じていますよ。ジンギス・カンはやはり大したものですよ。彼は過去から蘇ってくるでしょうか。わかりませんけれど、いずれにせよ違った形で蘇ってくるでしょうね」(ジル・ドゥルーズ)。

 世界史は世界交通の産物であるが、カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』において、交通について次のように書いている。

 

 ある地方でえられた生産諸力、ことに諸発明が、以後の発展に影響をおよぼすかどうかは、もっぱら交通の拡大いかんによる。直接の近隣を越える交通が、まだまったく存在しないかぎり、どの発明も地方ごとになされねばならない。そして蛮族の侵入のような通常の戦争でもよいが−−まったくの偶然だけあれば、発達した生産諸力と諸要求とをもつ国を、またもとのもくあみからやり直しという状態にしてしまうことができるのである。歴史の発端においては、どの発明も毎日はじめからやりなおされ、どの地方においてもそれぞれ独自におこなわなければならなかった。かなりな程度拡大された貿易が存在する場合でさえ、できあがった生産諸力が全滅するおそれがどれほどあるかということは、フェニキア人が立証している。かれらの発明の大部分は、この貿易からの駆逐、アレクサンドロスの征服およびそれから生じた衰亡の結果、長期にわたって逸失されてしまった。たとえば、中世におけるガラス画がおなじ運命をたどっている。交通が世界交通となり、大工業を土台としてもち、あらゆる国民が競争戦にひき入れられるときにはじめて、獲得された生産諸力の確実な存続が可能となるのである。

 

 これは工業製品に限定されることではない。世界史全般のすべての事物において、言えることである。料理はこれまでに何度も言及してきた通り、世界交通の動きなくしてはありえない。交通において重要なのは密度分布である。人口密度もその一つとしてあげられる。「この生産は、人口の増加によってはじめて出現する。人口の増加はそれ自身また個人相互のあいだの交通を前提している。この交通の形態は、こんどは生産によって規定されている」(『ドイツ・イデオロギー』)。交通が密度分布に基づいていることは粉の性質に似ている。粉は一つの粒では何にもならない。ある程度の密度がいる。世界各地で、穀類は食べられているが、小麦やソバのように、粉食として扱われる場合が多い。粉食が普及する以前は、粒食だけだった。ただし、粉体と粒体の区別に関して、粉体工学の研究者の間でも、意見の一致が必ずしもなく、混乱している。重力支配と付着力支配の関係から粉体と粒体をわける考え方もあるが、両者をあわせて「粉粒体」と呼ぶことも少なくない。粉粒体は、神保元二の『粉体の科学』によると、「固体が細分化され、かつその各部分が相互に拘束され合わない存在形態」、「確率統計的特性」、そして「表面特性が全体の挙動に対して支配的」という三つの条件を持っている。歴史を考察する際、粉体と粒体の区別も考慮しつつ、粉粒体工学的視点が不可欠である。「道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。無名は天地の始めなり。有名は万物の母なり。故に常無以て其の妙を観んと欲し、常有以て其の徼を観んと欲す。此の両者は、同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂う。玄の又玄は、衆妙の門なり」(『老子』一章)。ソバは日本以外でもよく食べられている。ソバは痩せた土地でも育つため、原産地の東アジアだけでなく、ヨーロッパの各地や中央アジア、北アメリカの一部でも栽培されている。イタリアの小麦やソバの麺の文化はマルコ・ポーロが東方から持ち帰ったのではなく、アラブ人が伝えたものだ。日本ではソバは縄文時代から食べられていたらしいが、団子や粥にしていたのであり、麺に加工したのは江戸時代からである。幕府の政策により単身生活者が多く、手軽に食べられるものが求められた結果だった。ミシェル・フーコーは、歴史研究の際に、連続性と非連続性を強調するためにエピステーメを提示したが、粉の運動は変化の点では連続であるが、層になるという点では非連続である。粉は、筒の中では、角運動量が保存されながら、摩擦力によって最後に入れた粒子が最初に出ていくラストイン・ファーストアウト現象がある。小麦の製粉技術を持っていたエジプトでは、この現象を利用して、ピラミッドの泥棒よけにしていた。さらに、粉は加工しやすく、強固な塊にも、液体に近い状態をつくりだせる。粉は反応しやすく、光の波長の違いにも鋭く反応してしまうだけでなく、炭塵爆発を起こす危険性を秘めている。世界交通は、まさに、粒子の性質・力の応用である。「物有りて混成し、天地に先だちて生ず。寂たり寥たり。独立して改まらず。周行して始からず。以て天下の母と為す可くし。吾、其の名を知らず。之に字にして道と曰う。強いて之が名を為して大と曰う」(『老子』二五章)。

 付け加えるならば、歴史的にも、地理的にも、世界で最も普遍的な食べ物は発酵食品である。さまざまな微生物が、いかなる環境にも適応して、生きている。消化・吸収するために、腸は、皮膚と並んで、外部接触をするから、微生物を棲まわせている。微生物がいなければ、人間だけでなく、動物は消化・吸収できない。物事を捉えるときに、脳を比喩にするよりも、腸を比喩にして考えるほうがはるかに有効である。脳への関心はあまりにまがまがしい。むしろ、「考える腸」を唱えるほうが健康的である。腸はさまざまな菌と最も共生を実践してきた。腸はエコロジーの見本市である。腸は最も身近で、完璧なエコロジーを体現している。エコロジーを唱えるのであれば、真っ先に腸内のエコロジーを訴えるべきである。ほとんどにエコロジー運動は緑の回復をスローガンに掲げる。しかし、これは分解作業を行う微生物を無視した極めてエコロジーとしては欠落した発想である。経済学における消費主義を回避するあまりのたんなる生産回帰にすぎない。緑を育むのは何かを思い起こすべきだろう。われわれは従来の経済学は不完全であり、分解の経済学を組みこむべきだと確信している。誰もこの分解の経済学を口にしていないのは不思議なことだ。歴史を発酵の認識によって考察する必要がある。驚くべきことに、いまだにこうした観点から歴史が研究されていない。従って、発酵学的歴史研究をわれわれは推奨する。

 ドゥブレがボリビアで行動をともにしたエルネスト・チェ・ゲバラは、一九六五年二月にアルジェリアで開催された第二回アジア・アフリカ経済ゼミナールにおいて、東西冷戦構想下の第三世界について次のように演説している。

 

 われわれはこのような精神を持って従属国にたいする援助の責任に立ち向かわなければならない。だから、価値法則やその産物である不平等な国際貿易関係からもたらされる発展途上国の生産物価格をもとにした互恵貿易発展させようなどとは考えてはならない。

「互恵」という言葉の意味を、途上国が血と汗を流して得た原料を国際市場価格で(途上国に)売り、大規模なオートメ工場で生産された機械を国際市場価格で(途上国に)売りつけることだ、などということができようか。

 この種の関係を二つの国家グループにあてはめてみると、われわれは社会主義諸国もある程度、帝国主義的搾取の共犯者であると認めざるを得ない。低開発諸国との貿易額は社会主義国の貿易にわずかの割合しか占めていないと言うこともできよう。

 それは確かに事実である。しかしそれによって交換の不道徳性は無くなるものではない。社会主義諸国は、西側の搾取国家との暗黙の共犯関係を解消する道徳的義務を負っている。

 われわれは、思想展開の理論的産物が一定の結論に落ち着くように前もって予想された道路を通り共産主義に至る道を選んだのではない。社会主義の現実と帝国主義の厳しい現実がわれわれを鍛え、一つの道を提示してくれた。そして、われわれはその道を意識的に選んだ。

 われわれは受益国が国内でその生産物を消費する能力がなく、みすみす国家資源を危険にさらしてしまうような、現実の能力と不均衡な基幹産業の設備準備をしているのをしばしばみかける。

 

 「社会主義諸国もある程度、帝国主義的搾取の共犯者」であり、「社会主義の現実と帝国主義の厳しい現実」によって「共産主義に至る道を選んだ」のなら、冷戦構造が消失しても、第三世界にとっての矛盾は消えない。「植民地的暴力」(ジャック・デリダ)は依然として続いている。さらに、第三世界そのものが抱える矛盾が政治不安やクーデターの起因の一つであるとしたら、第三世界の現状はウナアセヌス派やグノーシス派から崇拝されたウロポロスの蛇である。チリの軍部によるアジェンデ政権の転覆やインドネシアにおけるスカルノの失脚は典型的な東西冷戦下の第三世界の不幸だった。ゲバラが分析しているこのαにしてωである矛盾が、東西冷戦構造崩壊の際に、吹き出したのである。「人間は自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分で勝手に選んだ状況の下で歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、与えられた、過去から受け継いだ状況の下でつくるのである。あらゆる死んだ世代の伝統が、生きている人間の頭の上に悪魔のようにのしかかっている。そこで、人間は、自分自身と事物とを変革する仕事、これまでにまだなかったものをつくりだす仕事にたずさわっているように見えるちょうどそのときに、まさにそういう革命的危機の時期に、気づかわしげにかこの幽霊を呼びだして自分の用事をさせ、その名前や、戦いの合い言葉や、衣装を借りうけて、そういう由緒ある衣装をつけ、そういう借り物の台詞を使って、世界史の新しい場面を演じるのである」(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』)。

 二〇世紀はアメリカの世紀であり、アメリカ的な生活・思考様式が現代の世界で支配的になるのは必然的である。ハンバーガーやコーラ、フライドチキンといったアメリカ料理は、中国料理とならんで、現代において最もタフな料理である。ハンバーガーはタルタル・ステーキが原形だし、アメリカ人の大好きな調味料ケチャップはマレー語に由来しているから、かなりフュージョンな料理だと言わねばなるまい。アメリカには世界から人々が集まってきた。アメリカ人の嗜好は一九五〇年代まで、実は、豚肉が中心だったが、六〇年代に入ると、牛肉に変わっていく。そのころに生まれたマクドナルドの一九九七年の総売り上げは三三六億ドルにのぼり、これは日本の防衛費に匹敵する。アメリカ的基準に対抗しても、敗北するようになっている。しかし、それはあくまでも二〇世紀の話だ。東西冷戦構造が崩壊し、アメリカの一人勝ちの状況が生まれた途端、アメリカの世紀は終わりを迎えていく。アメリカの世紀を通過したわれわれに必要なのはインターナショナリズムではない。それは無国籍主義である。ナショナリズムなど論外だ。アメリカは無国籍へのステップを提供してくれた。その上で、一つの言語に固執する偏狭さを放棄し、多言語主義をとるべきなのである。われわれはニヒリズムを極限化しなければならない。

 ヘーゲルは哲学を形式的な問題から倫理的な問題へと移行させたカントの試みをさらに徹した。しかし、ヘーゲルは何も経験するべきことを要しない状態を理想としているのだ。「ある人間が教養がある人間であればあるほど、それだけますます多く彼は直接的直観のなかに生きているのではなくて、自分のあらゆる直観の場合に、同時に想起のなかに生きているのである。それで彼は新しいものをほとんど全く見ないで、たいていの新しいものの実体的内実はむしろすでに熟知されたあるものなのである。教養がある人間は同様にとくに自分の心像に満足し、直接的直観の必要をほとんど感じない」(ヘーゲル『精神哲学』)。さまざまな物事を新しいものとして経験し、それらを「労働」と「教養」をつむことによって、一般化していき、すべてを一般化してしまったとき、これ以上新しいものと出会うことはなくなる。ヘーゲルは、カントの道徳観とは違って、ある生の「満足」感を提示している。つまり、ヘーゲルの終わりの思考は「自分の心像に満足」し、「直接的直観の必要をほとんど感じない」ような「教養がある人間」となることなのだ。「ゲバラはすぐれた知識人だった。そればかりではなく、二〇世紀で最も完璧な人間だった」(ジャン=ポール・サルトル)。

 ヘーゲルの時代には、確かに、職業と自己は一致していた。職業によって、その人を判断した。日本でも明治のころは、そうだった。村の名士だから郵便局長になり、村民も固有名詞ではなく、郵便局長として見た。彼が骨董品収集をしていても、それは道楽にすぎなかった。職業が何よりも優先していたし、実際、平均寿命も短かった。今では、必ずしも、人を職業によってのみ判断することはしない。職業に貴賤はないからというわけではなく、職業は自己の一つの仮面にすぎないという認識が流通しているためだ。われわれはかつてマリリン・モンローのマニアの大学教授の社会学の講義を受けたことがあった。講義の時間をほとんどがマリリン・モンローの話に費やし、社会学に関することはわずか三分ばかり最後につけ加えるだけだった。学問そっちのけで、うっとりとした表情で「マリリン」と呟きつつ、顔を横に振る姿に、あるオーストリア人女性は唖然としていた。われわれは彼をマリリン・モンローのマニアがたまたま大学教授をやっていると考えていたので、非常に気楽な講義だった。マックス・ヴェーバーの「職業としての政治」や「職業としての学問」という命題は、現代では、もはや成立しない。現代のわれわれには、労働と教養によって自己の存在意義を確認することなどできないのである。自己を規定する際、趣味と職業の拮抗において、職業のほうを選ぶことは軽蔑の対象になる。エドアルド・エルドマンにとって、自転車に乗って空を眺めていることが人生を満喫できるときであり、ピアノは生計のほんとうに最後の切り札にすぎなかった。また、遠井吾郎はおいしい酒を飲むことが人生のすべてであり、野球はそれをよりうまくしてくれる調味料だった。フィールドに出て少し汗をかいたほうが酒はうまいというわけだ。カントは美的判断を無関心的な趣味判断と呼んだけれども、大瀧詠一の作品のように、趣味はより積極的・創造的な意味を持っている。職業では定年など自分の意思とは無関係に終わりを迎えるが、趣味の場合はそうではない。趣味における労働と教養の契機による自己の規定は、あくまで、内的であって、ヘーゲルのいう「絶対知」への到達とは違う。職業という概念は近代国家において、初めて、機能する。思いこみというものは結構ある。ジュリー・ウォーレスの『男の世界』は、チャールズ・ブロンソンが出ていたCMのおかげで、日本ではよく知られているけれども、あの曲をアメリカで知っている人はまずいない。ドイツにも、スラブ語系の独自のソルブ語を話す少数民族ソルブ人がいる。身分制の江戸時代では平均寿命も短かったが、隠居も早く、趣味を楽しんでいた。ただ、現代では、終わりに怯え、趣味を持つことが義務となって、趣味も規格化・類型化され、反動的に、近代国家の枠組みを強化するという別の危険がある。

 ドイツ語の過去形の特性を最も活用した哲学を構築したヘーゲルは、『精神哲学』において、そうした精神の状態を「老年」だと次のように述べている。

 

 老年は明確な関心をもたないで生活している。なぜかといえば老年は、以前にいだかれていた理想を実現することができるという希望を放棄してしまったからであり、また老年にとっては一般に未来がなんら新しいものを約束していないように見え、老年はしろ自分がひょっとするとなお出会うかもしれないような或るもののうち一般的な本質的なものをすでに知っているように信じているからである。こうして老人の感覚はもっぱらこの一般者および過去に向かって行く。そして老人はこの一般者の認識を過去に負っているのである。しかし老人はこのように過ぎ去ったものおよび実体的なものに対する想起のなかで生きているということによって、はなはだしく現在における個別的なものおよび恣意的なもの−−例えば名前−−に対して記憶を失う。そしてそれはちょうど、逆に、老人は経験が与える賢い教訓を自分の精神のなかに固持していて、若い人々に説教することを義務であると思っているのと同様である。しかしこの知恵−−すなわち主観的な活動とそれの世界とがこのように生気なく完全に合致しているということ−−は、対立をもたない子供時代に復帰して行くということである。そしてそれはちょうど、老年の物理的有機体の活動が、過程をもたない習慣になることによって、生きた個別性の抽象的否定に−−すなわちに−−進んで行くのと同じことである。

 こうして人間における老年の経過は、諸変化の、概念によって規定された全体性として終結する。そしてこれらの変化は類が個別性と共に行う過程を通して作り出されるのである。

 

 東洋の専制国家からギリシア・ローマの民主国家、さらにプロシア君主国家へと至る過程が自由であるというヘーゲルの主張は、こうした子供から大人そして老年へと至る円環に基づいている。『歴史哲学』にはプロシアの君主国家とあるが、彼がフランス革命を熱烈に支持していたことを考慮すれば、これは「国民国家」と解すべきだろう。実際、国民国家の出現以降、新たな国家体制は登場していないし、また国家より上位にある政体も生まれていない。確かに、国民国家と共に、歴史は終わったのだ。しかし、終わりの意識は、人生の終焉を迎えつつある「老年」以上に、これから人生が始まる青年に多く見られる。デビュー時に、太宰治は『晩年』を、ザ・ドアーズは『ジ・エンド』をそれぞれ発表している。青年は必然性の代わりに「自由」ではなく、別の必然性を求める。青年は今まで押しつけられていた必然性を破壊し、自分自身の必然性を規定する「自由」を求めるのである。終わりとは押しつけられていた必然性の終焉を意味している。学生時代に「老人」というあだ名をつけられていたヘーゲルの主張は「老年」と言うよりも、挫折した青年の思考と考えたほうが適切だろう。ヘーゲルと同い年のウィリアム・ワーズワースは「夜明けに生きるは幸福なことだ、若さはそれにも優る喜びだ」と歌ったが、ヘーゲルは、青年ヘーゲル派以上に、青年であった。青年ヘーゲル派は、彼と違って、挫折する前の青年だったのである。「望み信じれば実現する」(フェルディナント・ツェッペリン)。

 江藤淳がしばしば言及するエリック・エリクソンの「アイデンティティ」理論もヘーゲル主義的である。エリクソンはフロイトの理論をエディプス・コンプレックス、もしくは性的解釈から解放し、アイデンティティの危機と克服を生の諸段階に見た。『自我同一性』の中で「従来の精神分析学では、乳幼児期の葛藤や固着が、その後は変装された形で、くり返し再演されると考えられてきたが、今後われわれは、このようにして乳幼児期に発達した自我が、社会の組織・歴史上の各時代、各文化の中で、どのように根を下ろして価値的な発展をとげるのを理解せねばならない」と言うとき、フロイトがヘーゲル主義を転倒しているというのに、エリクソンはヘーゲルに退行しているのである。アイデンティティ理論を先取っていたヘーゲルの『精神哲学』は抽象的・思弁的ではなく、具体的な現実から生まれたものだ。ヘーゲルが四一歳で結婚したことにより、彼を溺愛し続けた妹クリスチアーネは、その兄が「ヒステリア」と呼ぶことになる精神以上に陥った。この妹は兄の半分の年齢ほどしかない若妻マリー・フォン・トゥヘルへの嫉妬心に苦しめられ、ひどい被害妄想にとらわれたのである。ヘーゲルは、一八〇七年、当時部屋を借りていた大家の妻クリスチアナ・フィッシャーに、婚外子ルードヴィヒを産ませている。ヘーゲルの弟ルードヴィヒがその子の名づけ親だった。ブルクハルト姓に戻ったクリスチアネはヘーゲルの結婚の話を聞いて、騒ぎを起こそうとしたが、かなり前から養育費を払っていたし、その子をひきとることを約束したため、それは落着した。若妻やほかの弟妹と折りが悪く、ヘーゲルはルードヴィヒを徒弟奉公に出さなければならなかった。ルードヴィヒはここで店の金を使いこみ、それから逃れるために、軍隊に入隊して、配属先のオランダ領東インドで熱病により亡くなっている。弁証法的な伝統ではないが、カール・マルクスも貴族の娘だった妻の連れてきた彼より四歳年下の家政婦に女の子を産ませている。フリードリヒ・エンゲルスがひきとり、自分の子供として育てているが、それはマルクスの生前には公には秘密とされていた。ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと同じ一七七〇年に生まれたゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、長男で、弟と妹が一人ずついた。母は教育熱心だったが、彼が十一歳のときに亡くなってしまった。父とはうまくいっていたが、息子がフランス革命に熱狂したことによって溝が広がった。クリスチアーネは家庭教師をしていたが、それを辞めなければならなくなり、一八二〇年には精神病院に収容され、翌年には退院した。「妹の兄への愛こそ至高の愛だ」と語ったヘーゲルは、「アンティゴネ」と愛した妹を、フランスの精神科医フィリップ・ピネルに診せることも思った。ピネルは、フランス革命の時期に、精神病患者の解放者とまで言われた精神医学の改革者だった。ヘーゲルはクリスチアーネに弁証法的治療が必要だと考えた。患者の苦情に耳を傾けて、信頼を治療者は得る必要がある。患者の理性的な側面を尊重しながら、患者の低次の段階に固着している「固定観念」が独断的で、現実離れしていることを納得させ、より高度な段階に至るようにしなければならない。ヘーゲルはクリスチアーネに治療を試みた。けれども、兄の死後、三か月もしないうちに、クリスチアーネは、散歩の途上、入水自殺をしてしまった。誰も書かないのが不思議なくらいに、近代小説のヒロインのような人生だった。

 理想が挫折したとしても、それを過激に貫徹することでも、沈静化することでもない次の一歩をヘーゲルは考えられなかった。ヘーゲルの主張は若いときにはハネあがりが年をとるにつれて、通俗化していくプロセスを意味しているにすぎない。終わりの思考が流行し、その後、始まりの思考が流行した。しかし、ほんとうは始まりも終わりもないのだ。始まりと終わりは相対的な関係にある。終わりから時代を考えることをやめるとしても、それではいかなる「時代」が始まったのかという問いに対してわれわれは答えることができないし、答える必要もないだろう。始まり=終わりによって「時代」を解釈することは、そこにある意図をこめていることを告げているにすぎない。すなわち、始まりや終わりを求めることは自己充足化・自己絶対化したときに、表われるのだ。始まり=終わりの思考はわれわれに「事実上」ではなく、「権利上」許されたものである。The end justifies the means.「時代」に対する命名はその「時代」の支配的な思想を表わすフィクションなのだ。しかし、始まり=終わりから出来事を把握する発想からわれわれは逃れることはできない。始まり=終わりの発想と同様、それを避けたものも意図を秘めた一つのフィクションなのである。始まり=終わりを唱えることによって、それが正しいか否かよりも、何がわれわれにもたらされるのかということを考察する必要があるだろう。終わるとか始まるとかいった時代に対する命名が重要なのではなく、少なくとも、われわれはそこで生きているのであり、それをあるがままに認めることが必要なのであって、「時代」を正当化することなど不必要なのだ。それはちょうど私の顔を最も見ることができないのは私自身なのであるが、しかし、そのことを嘆くことも喜ぶこともないように。なぜならば、そういったことはたかだか生きるときの一つの条件にすぎないのだから。「論理学や認識論を通じてであろうと、マルクスやニーチェを通じてであろうと、われわれの時代は自らをヘーゲルから解き放とうと苦悶する」(ミシェル・フーコー『言説の秩序』)。

 ヘーゲルは、『歴史哲学』の中で、「アフリカは世界史の一部ではない」と断言したが、イギリスの歴史家トレバー・ローパーは、一九六三年に至っても、「歴史と言うものは本質的にある目的に向かって進運動なのである。恐らく将来、アフリカにも何等かの歴史が出現するだろう。しかしながら今日、アフリカに歴史はない。強いてあげるならばアフリカにはヨーロッパ人の歴史のみが存在しているのである」と言っている。ヘーゲル主義的歴史観は共同体形成を目的としているけれども、共同体形成は歴史の一部でしかない。ガーナのエンクルマは、独立の際に、「われわれは過去を恥じる必要は少しもない。過去は光輝につつまれている。われわれの祖先がその時代に偉大な業績を成しとげたという事実は、われわれもまた、その過去から輝かしい未来を創造できるという確信を、われわれに与えるのである」と発言している。ヘーゲル弁証法はL・S・ペンローズの階段である。目的論はある目的、あるイメージに基づいた用法として導かれたものであり、別の用法から見れば、ずいぶん使いにくいものだ。南アフリカの作家、E・ムパシエーレは、「南アフリカでは、黒いタールが白人に塗り込められる一方、白い要素が黒人に塗り込められている。私は自分の内部でこれら異質な諸要素を和解させてきた。白と黒の両者の統合に至るまで、南アフリカには優れた白人小説も、優れた黒人小説も生まれないだろう。したがって、アフリカ人芸術家は自分が西洋化した人間でありつつも、なおアフリカ人であるというパラドックスを体現する存在であることをまず承認しなくてはならない。このアフリカン・パラドックスとでも呼ぶべき状況を生き抜くことを、私は自分の使命としている」

と言っている。たんに支配の原理に対して、被支配の原理を対置するだけでは不十分である。どちらも同じ地図を使っているからだ。しかし、ヘーゲルのように両者を止揚することもない。「ヘーゲル哲学は歴史的支配の枠をひたすら広げ、最終的には何らの抵抗なく、その壮大な内容を開示することになる」(ジャック・デリダ『弔鐘』)。中心化をゆるめ、その排他性・攻撃性を弱めていき、共存していくほうがいい。そして、交通が繰り返され、混成が進む中、その中心は崩れ、別の中心が生まれていく。これはとどまることがない。アフリカには多種多様な人種・民族・言語が溢れている。それは絶え間ない人々の移動・混血の結果である。整理され、物語化できるものが歴史だと考えるならば、この混沌さに拒絶反応を示すだろう。現在でも、ジャーナリズムが中東の政治的・経済的諸問題を扱う場合、思想的な現象なのに「宗教対立」、アフリカでは、「部族対立」という枠組みをあてはめて伝えてしまう。痩せて骨と皮だけになりながらも、腹部だけが異常に腫れあがっている子供の姿を放映し、援助を募るだけでなく、この状況を生み出した真の諸原因を明らかにする必要がある。援助の方法自体がこういう子供を増やしている原因の一つということもある。Asante. つまり、歴史は多種多様の交通の地図を描くことである。天麩羅だって、もとはポルトガル語のtempero だ。Bom apetite.

 こうしたヘーゲル的な認識を保持した魯山人の料理に関する考察における可能性はその結果における外的なものに対する抵抗の不在にほかならない。日本が「自然」に恵まれているから、日本人はすぐれていたのではないのだ。九〇度以上の高温と強酸性の性質を持つイエロー・ストーンの泥の湯に棲むスルフォロバスは最も原始的な生物と見られ、過酷な条件下でも適応できる能力は高いが、それにしても、ある特定の環境の中でしか生息できない。すべてが、魯山人の言うように、日本化されて終わるのではないけれども、外から入ってくるものを受け入れ、編み変えていくことは肝要であろう。海外のポップ・ミュージックと日本の歌謡曲の類似性がそれを物語っている。Lo spazio libero、あのイタリア的な優雅な陽気さ日本には欲しい。

 伝統的な日本料理は、飛行機以外の飛ぶものと椅子と机以外の四つ脚はすべて食べると言われる中国料理などと比べて、扱う食材は貧弱である。ちなみにわれわれは沖縄の伝統的な料理が口にあう。日本料理は、中華料理と違って、中国で冷野菜と呼ばれる食材を中心に使用されるため、食べた後に、皮膚の表面温度が上がりにくく、憂欝になりやすい。人によっては、日本料理は、新陳代謝を積極的に促進させないことから、ダイエットに向くどころか、逆に、太ることになってしまう。インド人のあの微妙な香辛料の調合といった楽しみを日本人はもっと知るべきだろう。食材の貧しさゆえに、包丁などの装飾技術が要求されるようになった。キャベツの繊切りの技術は西洋料理においては必要とされない。日本料理はその限界によって発達してきたのだ。そういう包丁技術を一つの論拠にして、日本人は日本料理が繊細だと信じているが、必ずしもそう断言できない。中華の料理人の飾り包丁の技は言わずもがな、ある無名のモロッコ人の女性は掌の上で玉葱のみじん切りを刻んで見せたし−−中東やインドでまな板は料理の必需品ではない−−、ある著名なフランス人シェフは、日本人が鴨の煮物料理をつくる際に、木製の落とし蓋をしているのを見て、これではせっかくの鴨に木の強い匂いがついてしまい、風味を損ねてしまう、とその料理人に異議を唱え、陶磁器の皿をその代用品にさせている。また、坂口安吾は、『豪勢な貧乏』において、物のない戦後すぐにもかかわらず、「魚のアラが美味であることは浜そだちの日本人なら大がい知っているが、日本の肉屋がハキダメへ捨てるものが獣肉中の王座を占める珍味だということは全く知られていない」ので、「巴里や北京の料理人なら天下の珍味に仕立てる材料」を肉屋や魚屋から安値で買い受けて食べる人は「ハキダメへ捨てるものを常食にしてやがると人々に後指をさされた」、と嘆いている。現在でも、高級料亭では、動物や魚の脳味噌や内臓、目玉などは平気で捨てられていることからも、日本料理は繊細、と言うよりも、乱暴だと考えざるを得ないだろう。

 しかしながら、外的なものを内在化することはしてはならない。と言うのも、内在化とは自己の正当化にすぎないからである。安吾は、『菜食文学』において、精進料理などの日本の野菜料理は「野菜の味を発揮するよりも、肉に似た味をデッチ上げるため」のものでしかなく、「それを肉以上の何かであるような神秘的味覚をすら自負するところ」がある、と批判している。このような欺瞞は中国から導入された仏教が日本に内在化された結果である。さらに、日本の法体系は国内の事情だけで運用される状態にあり、対外的関係にさらされると、矛盾が露呈し、機能が著しく低下する。法はその運用法を意味するのだ。法をないがしろにしたがる日本人は、しばしば、川の比喩によって無常観なるものを強調しようとしているけれども、「La paella es buena. (パエリアはおいしい)」と「Esta paella esta buena. (このパエリアはおいしい)」では違う動詞を使うカスティリャ語のスピーカーにとっては、こんなことは問題にはならない。不変の性質と一時的な状態の区別、あるいは一般と単独の区別が不十分な言語である日本語がもたらす未熟さを道徳的な価値判断にすりかえているだけだ。スペイン的な繊細さをわれわれは日本人に求めたい。La realidad sobrepasa a la fictin. また、「ドナウの真珠」にふさわしいマジャル語の動詞は定活用する。Szeretlek es varlak.十世紀ごろからほとんど変わらないアイスランド語の名詞には、定形と不定形の変化がある。前者は不特定の概念を述べる際に使われる変化型、後者は話し手と聞き手の両者間で了解が成立している特定の概念を示すものである。アイスランドで最も人気のある日本車はトヨタでも、ニッサンでも、ホンダでもなく、マツダである。ゾロアスター教の神Ahura Mazda から借用した「マスダ」はすっかりアイスランド語になじんでいる。日本で食べられている馬刺はアイスランド産のさくら肉が多い。Petta er storfint.そして、トルコ語には、超越時制形がある。それは一般論や真理、習慣、慣行、強い表現、断定的表現を表わす場合に用いられる。日本人が曖昧にしてしまおうとする事実に関して、トルコ人は厳密さを追及する。Rica ederim!「すぐれてイデオロギー的な現象である言葉は、絶え間なき生成と変化の中にあり、社会的変動のすべてに敏感に反映する。言葉の運命の中には、話し手の社会の運命がある」(ミハイル・バフチン『マルクス主義と言語哲学』)。

 そのスペインの小説家アントニオ・ムニョス・モリーナは、『エル・パイス』紙のインタビューに応じて、「私に関心があるのは暴力の後にくることを語ることだ」として、暴力よりも犠牲者と周囲の人々を中心に描くと答えている。今日の文学において、評価される作品は行為者の視点から暴力・犯罪行為を表現しているものが多い。われわれは行為者視点の文学を、否定しがたい魅力を認めるものの。プレ・ヘーゲル的発想と批判しなければならない。それは、われわれの大好きなパロディやパスティッシュも含む。われわれは、しかし、注意しなければならない。たんに視点を変えれば、ポスト・ヘーゲル的発想になるわけではないのだ。被害者の側から描くには、方法論の大胆な転換が不可欠である。むしろ、方法論の転換が視点を変える。世界は方法論を通じて認識され、世界観も構成される。トラウマを扱うにしても、フロイト的だけでなく、大脳生理学的、分子生物学的などさまざまな方法論も可能なのだ。ビートニクがやったことは評価できるとしても、暴力や性、幻覚、ドラッグに文学的可能性を見出している日本の文学者は極めて安易である。しかも、「等身大の言葉」も素朴に唱えられている。ただわれわれは、この状態に対して、一九八六年、内戦の末に政権の座についたウガンダの大統領ムセベニがアフリカの後進性について語った言葉を紹介しよう。「それらを許し生み出したのは私たちの責任であるし、批判し変革していくのも私たちの責任なのだ」。日本の法は、外的存在を純粋に内在化しないと、その対象に適用できないのである。外的にあって、やってくるものを理念や観念として処理するのではなく、われわれが生きていく際に、それが必要であるか否かという問題に尽きるのだ。ナイフやフォークは、中世になって、当時流行していたひだ襟が大きくなりすぎたため、道具を使わないと口に食べ物が運ぶことができなくなったことから使われ始めたのである。それまで西洋では、神の創造したものを道具で食べることは神に対する冒涜であるという理由で教会が禁止していたため、手で食べていた。理念で料理が構成されてきたことなどないのである。従って、われわれが魯山人から学ぶことは理念や観念から世界を把握することではなく、コミュニケーションによって、自己と世界の間にいかに妥協点を見つけるかにほかならない。今日、料理に関する言説は極めて豊かになったが、理論はまったくともなってはいないのだ。魯山人は、その意味で、今日に至るまで近代日本では唯一の美食の理論家である。esse esse est!

 

 世界がいかにあるべきかを教えることにかんしてなお一言つけくわえるなら、そのためには哲学はもともと、いつも来方がおそすぎるのである。哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現われる。これは概念が教えるところであるが、歴史もまた必然的に示しているように、現実の成熟のなかではじめて、観念的なものは実在的なものの向こうを這って現われ、この同じ世界をその実体においてとらえて、これを一つの知的な王国のすがたでおのれに建設するのである。

 哲学がその理論の灰色に灰色をかさねてえがくとき、生の一つの姿はすでに老いたものとなっているのであって、灰色に灰色ではその生の姿は若返らされはせず、ただ認識されるだけである。ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる。

(『法哲学』序文)

〈了〉

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